皆さん、こんばんは!
前回のブログで叔父が他界したことをチョロっと書きましたが…
親類や友人の葬儀に行くといろんなことを考えさせられます。
そんな中で一貫して私が大切にしていること、それは、
死んだものよりも生きている者を
です。
これは私自身が祖父が他界した時、あまりの悲しみに打ちひしがれて祖父の遺体の前で呆然と座っているだけで何もできなかったことがキッカケだと思われます。
祖父と祖母は私にとって本当に大切なことを沢山教えてくれて、誰より私を愛してくれました。
私にとってとっても大きな支えでした。
祖父が亡くなった晩、夢に祖父が出てきました。
「龍君、おじいちゃんのことでそんなに悲しんでくれておおきにやで。
せやけどな、死ぬいうたら自然なことなんやで。
龍君も一度死にかけたからわかるやろ?
やから何もそんな悲しいことやないんや。
おじいちゃん戦争でたくさん仲間を失うたけど、もしおじいちゃんが悲しんで動けんようになったら誰が指揮すんのや?
指揮するもんがおらんかったら部隊は全滅やで。
やからな、龍君は男やろ?
どんなに悲しゅうても、我を忘れて動けんようになったらあかんで。」
たとえこれが単なる夢で私の妄想だったとしても、確かに祖父が言いそうなことです。
私は20歳の時バイクでトレーラーの横っ腹にあり得ないスピードで突っ込み、肝臓その他の臓器が破裂し、出血性ショックで死にかけた時に文字通りあの世の淵を垣間見てきました。
その時のことを考えてみたら…
この時初めて
「死」
というものと、
私が動けなくなる程に打ちのめされた
「悲しみ」
とは別物だということがわかりました。
「死」
は故人だけのもの。
「悲しみ」
は私だけのもの。
私はここを混同してしまっていたんです。
少し話は逸れますが、エンパスの方達は他の人の悲しみまで感じ取って反応してしまうかもしれませんね。
他人の感情を自分のこととして感じ取れるという「才能」はとても素晴らしいギフトです。
しかし、ある程度は他人と自分の境界線をちゃんと引くようにしておかないと、
「あなたの人生」
を生きることが難しくなってしまいます。
あなたの人生を生きることができないと言うことは、この世界に
「たった一人しか存在しないあなた」
としてこの世に生まれてきた意味を否定することになってしまいます。
エンパスの方も、その能力に磨きをかければ自分の感情か他人の感情かわかるようになります。
どうかご自分のギフトをより発展させて、他人の感情に流されることなく、そのギフトを活かしてこの世の旅を楽しむことができますよう、全てのエンパスの方達のためにお祈りしております。
(なんちゃってエンパスな人は他人の感情を勝手に決めつけて押し付けないで!)
人の死に対して祖父の言葉
実行できたのは妹が他界した時。
とはいえその頃はこの夢のことなどすっかり忘れていましたが
ついこの前の叔父の葬儀の後、母親が
「龍司がおじいちゃんから聞いたことって本当だね!」
と言い出した時に思い出しました
しかし忘れてはいてもしっかりと意識の中に根付いていたようで。
死者をあの世に送るためのセレモニーがお葬式。
故人が非業の死を遂げたのならば故人の無念さに想いを馳せて嘆き悲しむというのは人間としてよくわかります。
しかし故人が大往生であった場合、もしもあなたが故人の立場だったら、あなたを失った家族の悲しみが深ければどうでしょう?
ましてやあなたの死のせいで家族、親族、友人達が何もできず、生きる気力まで無くしてしまったら?
「私が死んだせいでこの人はダメになってしまうかもしれない!」
と不安になりませんか?
死別とは悲しいことです。
えもしれぬ喪失感に打ちのめされるのもよくわかります。
でもその悲しみは故人のものではなく、あなただけのもの。
それを故人の死のせいにしてしまうのは依存と同じことになってしまいかねないですし、故人も安心してあちらに行けないのではないでしょうか?
なので私は誰かが亡くなった時はもちろん葬儀には必ず参列しますが、それ以外の時は
生きている他人を優先します。
悲しむのは故人と対面した時と、後で時間が出来た時、故人のことを思い出した時だけでいい。
だって悲しみは自分自身の感情でしかないのだから。
その分を遺された家族、そして私を必要としてくれている人のために。
恐らく私がこうやって動けるのも、私が受け継いだギフトなのだから。
いつも私が縁のあった人に言っていることですが、
どんな死に方であろうと人の寿命は決まっていて、決して変えることはできません。
何故なら死んだらそれが寿命だから。
これはもしかしたら若くして自分からこの世を去った妹の死への何らかの答えが欲しいが故の理屈なのかもしれません…
妹のことはこちら。
しかし、例えば大病から生還した人が道で転んで死んだ、という話もありますし、
逆に私のようにバイク事故で担ぎ込まれた病院の枕元で医者と看護婦が、
「この子もうあかんな。」
と言ったにもかかわらず今こうして五体満足で生きている例もあります。
寿命である以上、死してもこの世に留まっておられる方達は上にお戻りいただかなければならない。
たとえ如何なる無念や後悔、心残りがあったとしても…
終わった人生にこだわり続ける、それは故人にとって、本当はとっても痛く、辛く、悲しいことだから。
生きている人間が故人に出来ること、それは…
故人が現世のことで悩むことなく、安心して上にお戻り出来るよう、この世で自分の仕事、もっと言えば役割をこなす
これこそ残されたものの務めではないでしょうか?
だからといって悲しみに蓋をしろ、と言ってるのではありません。
悲しみもまたとても大切なもの。
div>
何故なら悲しみや怒りというマイナスの感情と言われるものも「あなた」自身が感じている感情なのだから。
それを否定するということは、この世でたった一人しかいない大切で尊い存在である、あなた自身を否定するということです。
私は妹が死んだ時に心に蓋をしました。
でも本当はそんなことをしなくてもいい。
だって悲しみが自分だけのものとわかっていたら悲しみの中でも動けるのだから。
思いっきり悲しんでも大丈夫。
だから今回の叔父が他界した時も新幹線の中でブログが書けたし、依頼があったのでセッションもできた。
仮に悲しい出来事が起こった時にレイキのセッションの依頼があったとしても、自他の問題をちゃんと区別できていればちゃんと光と繋がってお客様に変なものを入れることなくセッションできる。
今回もどれほど効果があったかいちいち確かめるようなことはしませんが、言の葉にレイキを乗せて遺族と接してきました。
これが私のやり方です。
そして、私がブログタイトルで、
「完璧な自分を思い出すお手伝いのスペシャリスト」
と名乗っている理由ですが。
私は人はそれぞれ生まれ出でた時から完璧だと考えています。
しかし完全ではない。
私がいう完璧とは、種が成長して花を咲かせて実らせるために予め必要なものを持っているような感じ、といえばわかりやすいかもしれません。
そして土に落ちてから土の養分と水と熱と光がいります。
やがて種は立派な木に育つ。
魂の誓願、というものがあるとして、人は皆その誓願を実現させるために必要なものは持ってて、あとは環境、選択、縁、っていう人間と似てませんか?
関連記事
世界で一つだけの花
お手伝いとしている理由は、
人は他人を変えることはできないから。
私達が他人に対してできることはお手伝いだけ。
他人を変えるだなんて人の自由意志というものをまるで無視した高慢以外なんでもない。
当の本人が自覚して、望んで、動いて初めて変わることができる。
それは病気を治すことは本人しかできないのと同じこと。
いつも言ってることですが、例えばいくら医者が手術しようと、本人の治癒力が無ければ傷口すら塞がりません。
スペシャリストというのは、どんな仕事にせよ、人様からお金を頂戴している以上、その道のスペシャリストであろうとするべきだ、と私は考えています。
お金を頂く、ということは中途半端ではいけないんです。
ちゃんと結果を出さなきゃ。
初めてお客様と接するような人でも、お客様からみたら長年やってる人も初めての人も等しくプロなのですから。
お客様と触れ合えば触れ合うほど、同じケースなんかないし、毎回100%の良いセッションをできているかといえばできてません。
しかし、これだけは言えるのは、毎回全力でお手伝いさせていただいている、ということ。
そして常に100%の良いセッションが出来るようになるために本やセミナーで知識を吸収し、実践し、経験値をあげ、体感をしながら心を、魂を、己そのものを磨く。
要はスペシャリストを名乗ることで自分にハッパをかけているわけで、真摯に道を追求していくための自分への戒めなのです。
それに私はスピ系の仕事に携わる人間は業が深いと考えています。
スピリチュアルに関わる人間は業が深い?
にも関わらず、妄想の世界に囚われて、
俺って何でもできるんだぜ〜
みたいなことをほざくバカなど、本を売るならブックオフならぬ、
ケンカ売るならFu◯k off!
なわけで。
そういう奴に限って妄想の中に囚われて自己研鑽はおろか、勉強すらしない。
こういう輩をバカにしている私も人のことは言えませんがw
それゆえ、私は占いの仕事の時も
「先生」と呼ばれることを拒否
します。
ましてや手を合わせて拝まれることなんて言語道断。
同じ人間ですから。
私も人に手を合わせる時があります。
それはその人の中の神性に手を合わせます。
決してその人を神格化し、
め奉るために手を合わせるのではない。
仏教でもお坊さんが手を合わせるのはその人の仏性に感謝して手を合わせるのであって、その人を崇め奉るためではない。
天馬偈にあるように、悟りの境地に達した人ならいざ知らず、そこを履き違えて手を合わされても…
あなたが神ならば私も神です。
私がただの人間であって、あなたもただの人間であるように。
同格のものに手を合わされたりしますかって話。
先生と呼ばれたり、手を合わされたりしてるうちに自分でどれだけ気をつけていても必ずといっていいほど高慢というホコリが積もってきます。
するとお客様に対して表面上は取り繕えても、必ずどこかでエゴが出てきますし、そうなるとスピリチュアルな能力は失われ、代わりに妄想に支配されていきます。
何故?
だって我々は神性も魔性も、清濁併せ持った人間なのだから。
だからこそ素晴らしい。
だからこそ美しい。
それに気づかずに自己義認の低さゆえに承認欲求のみに突き動かされた人たちが狂っていく。
そんな例を腐るほど見てきました。
私だって普通の人間でそっちの世界と関わっている以上、その罠は常に口を開けて待ってます。
そうならないために。
私がブログを書く理由。
それは私の考え、想いを伝えるため。
商売でブログをやってる人も多いとはおもいますが、考えや想いを伝えるというところは基本的には皆同じではないでしょうか?
なので沢山の人に伝わればいいなぁと思って書いてます。
それをどう受け取るかはその人次第なわけで。
でも、仲間は少なくていいと考えてます。
だって私は不器用だし、誤解されやすい人間なので、沢山の人と同じように付き合うことができないから。
ただ、困ってる人や悩んでる人がいたら、私の出来る範囲でお手伝いできたら、それはとても素晴らしいこと。
そうできる人間でありたいと思ってます。
なお、フォローして下さるのはとても嬉しいし、感謝なことなのですが、どういうわけかフォローの通知が来たと思ったら二日後くらいにまたフォローの通知が来て、そのままほっておいたら何回も来る人がいます。
あれは一体なんなのでしょう…
相互フォローしたいのかな?
それとも単純に釣り?
よくわかりませんが

まあこんなわけのわからない私ではありますが、今後ともよろしくおねがいします

ありがとうございました!
1976年の占い
またまた
この記事 書く日が来ちゃいましたね…
これ以下は
前にも なんもも書いているので 完コピして
載せます…
読者申請は 占い カウンセラーの方は ごめんなさいしてます。
あと ブログのない方も いまは 承認してません
読者にならなくても 読んでいただくるかなぁと
アメンバーも読者も 基本 相互させてもらいたいので ごめんなさい
これまで
なんども書いてますが
エッチな 記事を 書くたびに
申請が来ます(笑)
みなさま 興味が おありのようですね
ありがとうござます
タイミングよね(笑)
色々 考えました。
ブログ されている方で 婚外ブログの方など
どんな方なのか わかる方は
そのまま 承認してますが できれば コメ メッセのやりとりのある方!
ブログされてない方
メッセージ頂き わたしの 勝手な 判断ですか
この方ならと 思った方は 承認しています。
メッセージできない設定のかたが時々いるみたあですが
直せないの?かしら コメでも と思いますが
いままで 一度も 絡みがないかたに
突然 お願いしますと 言われても…
どんなかた? どこに共感?
と なります。
アメ限は 基本 えっちーな こと と
配偶者への とてつもない悪口や
過去のことです。
非日常な 感じの記事になってるので
自己満です
申請がきても ブログのない メッセージもない
絡みも一度もないかたは ちょっと 考えます…
過去に メッセージが送れないと
クレームのように コメをくれた人がいますが
それは わたしの、せいではないので…
そこまでして 読んだり 繋がる必要はないかと…
なので そんな方は わたしのことなど
スルーしてくださいね…
これを読んで 嫌な気持ちになったかたは
どーそ
スルーしてくださいね
悪しからず…