日本人なら知っておくべき至高体験のこと
訪れる時はなるべく『お菓子』を持参します。
子狐ちゃんの姿は目で見ることはできませんが、喜んでもらえるのは嬉しいですよね。
その話を聞いて以来、訪れる時にはなるべくお菓子を用意するようになりました。
本殿にお祈りすると宇迦之御魂神様から、「必要なだけ持っていくがよい」と伝えられ、『大金の入ったアタッシュケース』や、『宇宙銀行のカード』を手渡されるようです。
訪れるたびに大金をいただく『夢』を楽しませていただいています。
カーネルおじさんも倦怠期、ケンタッキー天伴です。
ブログにも登場している『パートナー(仮名)』との出会いについてです。
その頃に「旅の記録を残した方がよい」という指示(?)があり、何となくブログを作りました。
そのため自分がどこの場所に足を運んだのか忘れてしまいます。
ちなみに様々な写真から『霊的なエネルギー』を感じられると思います。
一番の原因としては勤めていた会社の社長から「休みを減らして会社のために活動して欲しい」と頼まれたからです。
もともとは「旅をするためにたびたび休みます」という条件で入社しています。
しかし会社に迷惑をかけるのも問題と感じて、旅のために休むことを止めて仕事重視になりました。
そして仕事の帰宅後は暇つぶしがてらに『Yahoo!チャット』というチャットサイトでチャットを楽しむようになりました。
現在は廃止されていますが、約10年前はかなり人気のあったチャットサービスです。
スピリチュアル系の会話ができる場所はあまりありません。
そのためスピリチュアル系を含め、目に見えない世界の話を気軽にできる場所はとても貴重な存在でした。
ただし当時は『お互いの関係性』を知るはずもなく、お互い『ログインネーム』で何気ない日常会話をする程度の関係でした。
霊能部屋が突然消えてしまったのです。
それ以来、霊能部屋が復活することを毎日チェックしていたのですが見つけることができませんでした。
するとパートナーが「もしかして、オーラさん?」と声をかけてきました。
別のログインネームなのにいきなりバレてしまい驚いたのですが、実は僕を探していたパートナーが「僕を呼ぶためにチャットルームを作った」そうです。
そしてチャットでいろいろと会話して「ではまた~」と、お別れしました。
つまり『僕だけがなぜか霊能部屋を見つけられない状態』になっていたらしいのです。
パートナーと最後にチャットした後も霊能部屋は存在していたそうですが、僕だけが部屋を見つけられない状態になってしまい、結局『二度と霊能部屋に戻れない状態』になってしまいました。
不思議なことですが、天に仕組まれていたのでしょう。
「魂の相手」という感覚を突然思い出したそうです。
名前も住所も知りませんし、もちろん連絡先も一切知らないのです。
そしてこれも天から仕組まれているようですが、『aura_love』には僕の写真が一枚掲載。
9年の出来事であり、僕とパートナーとの出会いです」
白黒やテレビ画像のような加工を少ししていますが、パートナーは『別人の写真』や『合成』かもしれないと思っていたそうです。
エセ霊能者め。
アメーバピグでは『ヒーリングのレイキ』が好きな人や、『プロの占い師』たちと仲良くなり、スピリチュアル系の会話を楽しむようになりました。
また『パワーストーン』や『フラワーエッセンス』などを使いながら、自分と向き合う作業をひたすらしていたそうです。
さらに2012年の秋頃には、僕のブログ『神仏たずねて三万里』を見て、「同じ世界を見てみたい!」と感じて日本各地への旅を開始したそうです。
パートナーは恋愛もせず僕と会うために頑張っていたようですが、僕は『大人の人生勉強をしていた』ことにしましょう。
それから徐々に女性との距離が離れていくことになりました。
僕はもともと1日に2箱タバコを吸うようなヘビースモーカーでしたが、なぜか「止めよう」と思ったのです。
さらになぜか『筋トレ』をするようになりました。
もともと筋トレは好きですが、なんとなく「来年のために鍛えておいた方がいい」と感じたのです。
不思議なことですが、約半年前から出会う前の準備がはじまっていたのでしょう。
意味不明な内容ですからブログの訪問者は誰もいません。
僕自身「人気がないブログだな~」と思いながらも記事を更新していました。
「ずっと待っているだけで出会いがあるはずがない!」と思っていたのですが、とりあえず予知をしていた日まで待ってみました。
「また旅を開始されるんですね。活動応援しています」と書かれているのです。
数年間放置していたブログにコメントをくれて嬉しかったのですが、コメントでやりとりしているうちに「あれ
?もしかしてこの人は?」と思うようになりました。
そして僕はパートナーが裏で必死に探していたことを知る由もありません。
正に『奇跡』ともいえる運命の出会いでしょうし、『全て天に仕組まれている』と感じます。
それを見せてもらい「ああ!確かに会話していた!」という状態でした。
基本的には真面目なつもりですが、『真面目では面白みがない』ので、あえて自分を作って生活していました。
『ホスト』や『ミュージシャン』ではなく、ごく普通の会社員です。
(当時のエネルギー状態は非常によろしくないので閲覧注意です)
そのため、あまりにも理想像と、実際の僕の違いに驚愕し、「あ、この人違う!私の勘違いだった」と思ったそうです。
僕の魂に惹かれて探していたそうですが「本質は現在の状態とは全く違う」と感じて「おかしい…、おかしい…」と混乱したそうです。
僕はパートナーのおかげで少しずつ本来の自分に近づいていると感じます。
また、数年間のブランクを埋めるように各地を巡り、急激に『自分自神』と『エネルギー』を高めている感覚があります。
パートナーと共にこれからもよろしくお願いいたします。
ドラマも良いけど、至高体験も良いよねぇ~♪
デビッド・カイル・フォスター
人はしばしば、聖書はなぜ自慰行為(マスタベーション)について直接的に語っていないのだろうかと不思議に思っています。
自慰行為は、キリストの体の中で沢山の罪悪感と憶測を引き起こしています。ですから私達は、ギャンブルや喫煙…etcといった事柄に対処するのと同様に、自慰行為が罪なのかどうか考えるために聖書の原則を総括し、判断するようにと委ねられているのです。
聖書の原則
私達の主が教えて下さった聖書の原則をもって始めていきましょう。その原則とはこれです。「誰であっても情欲を抱いて女性を見るものは、すでに心の中で姦淫を犯している。」(マタイ5:27-28)。
私達は皆、それが罪であることを知っています。
私達はまた、内におられる聖霊様の内なる証によって罪を知ります。
自慰行為をして罪悪感を持たずに生きている人なんていますか?
さらに聖書は、体は聖霊の宮、神聖な宮であり(Ⅰコリント3:16、Ⅱコリント6:16)、キリストご自身の器官(Ⅰコロサイ6:15-20)であると教えています。
「私達の中におられるキリスト」を売春婦と結んではならないと警告されているなら、なぜ私達は主を私達の思いの中の不道徳な考えや画像に結び付けたいと思うのでしょうか?(Ⅰコリント6:15-17)
聖書はまた、性的不道徳は私達の体にたいする罪だと教えています(Ⅰコリント6:18)。
さらに、Ⅰペテロ2:11は、罪深い欲が私達の魂に戦いを挑んでいると語っています。
とういうことは、自慰行為とそれに伴う不道徳な妄想に携わることによって、私達は自分自身にたいして戦いを挑んでいるのです。
そして、この行為の虜になっている人なら誰でも証言できるように、その戦いは地獄のような苦しみです。
最後に、自慰行為が罪なのかどうか私達が探る時に、しばしば見落とされている非常に重要な聖書の原則がⅠコリント6:12、Ⅱペテロ2:19-20とローマ6:14-23にあります。
要するに「人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。」
貞操の原則
(Ⅰペテロ3:2、黙示録14:4、Ⅱコリント11:2、エペソ5:27、ヨブ31:1、Ⅰテサロニケ4:3-4)
教会史を通して、真剣なクリスチャン達は聖書の貞操の原則によって導かれてきました。
貞操とは、精神的であれ肉体的であれ純潔と性的自制の原則に則って、人生を生きるという考えです。
ある意味、自分自身と他者を尊ぶことです。
また貞操は、キリストと教会の結婚を前もって示し、体現するという人間の性行動の麗しさと神様の目的を実行するということです。
恵みの原則
ここでは、子ども達や思春期の子供達が性欲からではなく、単に自分の体の不思議さにたいする純真な興味から、自分の体に触ることについて言及はしていません。
実は、そのような場合に、「何をやってるのよ!」と厳しい態度を取ると、子どもの思考に病的執着と強迫観念をもたらしてしまう可能性があるのです。
さらに悪いことに、その子どもが両親を尊敬していない場合、密かな反抗への道を作りだす可能性があります。
またそのような場合、好奇心や罪悪感が登場してきます。
私達はこの聖書の原則を覚えとく必要があります。
結局の所、私達を罪の刑罰だけではなく、罪の力からも救ってくださったのは神様の恵みなのです。
この恵みの原則は、止めようと勇敢に試みたにも関わらず、自慰行為をし続けている成人の信者にも有効です。
自慰行為を止めることができた!と思ったら、やってしまう。
「あなたは、わたし以上に、自分に厳しくし過ぎている!」
それが、毎回失敗する度に自分をいじめるのを止め、自由を見出すために新鮮なアプローチを取ることができるよう恵みが働いた瞬間だったのです。
そのアプローチには、自分の失敗に執着するのではなく、むしろ神様との親密さを増していくことに重点を置くことが含まれていました。
逃れの道
悔
改めることができるように、根となっている罪の問題を知ることは重要です(そのような啓示は、神様と親密に過ごしている時に与えられます)。
言い換えるなら、的確に原因となっているものを見出し、それを告白する必要があるということです。
それでは、神様の御前で告白する必要がある、根本的な罪の問題とは何なのでしょうか?
1.不信仰:神様が本当に良いお方であることを疑うこと。
罪を犯すと、その瞬間に、神様が本当に自分のそばにいてくださっているのか、つまり自分ことを気にかけてくださっているのかを疑い始め、それゆえに神様が良いお方なのかを疑うようになります。
多くの人は心ではなく、知性で「信じている」だけなので、神様の約束の現れを見逃してしまうのです。
Ⅱペテロ1:3-11、詩篇16:7-8、ローマ8:5-14、ガラテヤ5:16といったみことばを思い巡らし、黙想し、心で信じてください。
実のところ、神様は独身者のためにさえ、自慰行為よりもはるかに素晴らしいものを用意しておられるのです。
神様は、人の性的な一面に満足感と完全さを与える、より次元の高いものを用意しておられます。
この真理を理解することは、罪を捨て去るよう説得されている私達にとって、非常に効果があります。
2.偶像崇拝:エペソ5:3-5とコロサイ3:5は、性的不品行は一種の偶像崇拝であるとはっきり語っています。
いかなる神を崇拝するのと同様、自慰行為には、それ独自の崇拝対象と儀式(決まりきったやり方)があります。ほぼ恍惚状態のような至高体験へと人を誘う、時間、場所、きっかけ、決まった道具、決まったやり方です。
そのような儀式的な偶像崇拝を告白し、それら様々な要素を取り除き、捨て去ることが、その力が打ち砕かれるのを見る秘訣なのです。
さらに、自慰行為はしばしば、特に大きな痛みを通っている人達にとって、命と平安の源となってしまっています。
その習性が彼らの意識にしっかりと染み付いてしまって、それ無しの生活を想像することが不可能になってしまっています。
そうであったとしても彼らは自身のトラウマが癒されることを求める必要があるのです。
3.反抗心:時に、私達はただ単に、聖霊様の御声に聞き従うことを拒んだり、あるいは聞こえない振りをします。
つまり、私達が、自分が反逆していたことを認め、そして神様を愛し、(真実な愛の土台として与えられた)自由意志の必要性を信じるという両方の選択をするなら、神様が完全な愛と高潔さをもって働いてくださるのです。
「私達は罪を犯す必要がある」、「自分には罪を犯す権利がある」、「これは今、大変な試練を通っている私の事を考慮して神様が最低限許してくださるものだ」と言い張るのです。
神様にたいするより大きな愛は、神様を深く知るために時間をかけた結果、生じるのです。
十字架について思い巡らすことも、重要な鍵です。
そうするなら、選択がより一層簡単になっていきます。
5.自己欺瞞(自分を欺くこと):長い年月の間に、私達は自分自身を欺き、本当は手放すつもりが全くないものから自分は自由になりたいんだと信じ込ませる名人となってしまっていたことに気がつくのは屈辱的です。
6.自分の力で正しくなろうとすること:私達の多くが、分別のある人達でさえ、絶えずこの罠に落ちてしまっています。
自慰行為や様々な罪のとりことなる背後には、ここで全てをリストするのは不可能な程多くの考えられる要塞があります。
だからこそ、神様との親密な関係と神様からの啓示を追い求め、主が語られることを行う事が、本当のところ逃れの道なのです。
そうするなら後は、神様が聖霊様のささやきと力によって、あなたを真の解放へと導いてくださいます。
デイビッド・カイル・フォスター博士(トリニティ―神学校にて神学修士号と神学博士号を修得)
Transformed Into His Image とLove Hungerの著者。Pure Passion Mediaの創設者兼監督。
Copyright Charisma Media, USA. All rights reserved.
至高体験商品を自宅にいながら手に入れよう
デビッド・カイル・フォスター
人はしばしば、聖書はなぜ自慰行為(マスタベーション)について直接的に語っていないのだろうかと不思議に思っています。
自慰行為は、キリストの体の中で沢山の罪悪感と憶測を引き起こしています。ですから私達は、ギャンブルや喫煙…etcといった事柄に対処するのと同様に、自慰行為が罪なのかどうか考えるために聖書の原則を総括し、判断するようにと委ねられているのです。
聖書の原則
私達の主が教えて下さった聖書の原則をもって始めていきましょう。その原則とはこれです。「誰であっても情欲を抱いて女性を見るものは、すでに心の中で姦淫を犯している。」(マタイ5:27-28)。
私達は皆、それが罪であることを知っています。
私達はまた、内におられる聖霊様の内なる証によって罪を知ります。
自慰行為をして罪悪感を持たずに生きている人なんていますか?
さらに聖書は、体は聖霊の宮、神聖な宮であり(Ⅰコリント3:16、Ⅱコリント6:16)、キリストご自身の器官(Ⅰコロサイ6:15-20)であると教えています。
「私達の中におられるキリスト」を売春婦と結んではならないと警告されているなら、なぜ私達は主を私達の思いの中の不道徳な考えや画像に結び付けたいと思うのでしょうか?(Ⅰコリント6:15-17)
聖書はまた、性的不道徳は私達の体にたいする罪だと教えています(Ⅰコリント6:18)。
さらに、Ⅰペテロ2:11は、罪深い欲が私達の魂に戦いを挑んでいると語っています。
とういうことは、自慰行為とそれに伴う不道徳な妄想に携わることによって、私達は自分自身にたいして戦いを挑んでいるのです。
そして、この行為の虜になっている人なら誰でも証言できるように、その戦いは地獄のような苦しみです。
最後に、自慰行為が罪なのかどうか私達が探る時に、しばしば見落とされている非常に重要な聖書の原則がⅠコリント6:12、Ⅱペテロ2:19-20とローマ6:14-23にあります。
要するに「人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。」
貞操の原則
(Ⅰペテロ3:2、黙示録14:4、Ⅱコリント11:2、エペソ5:27、ヨブ31:1、Ⅰテサロニケ4:3-4)
教会史を通して、真剣なクリスチャン達は聖書の貞操の原則によって導かれてきました。
貞操とは、精神的であれ肉体的であれ純潔と性的自制の原則に則って、人生を生きるという考えです。
ある意味、自分自身と他者を尊ぶことです。
また貞操は、キリストと教会の結婚を前もって示し、体現するという人間の性行動の麗しさと神様の目的を実行するということです。
恵みの原則
ここでは、子ども達や思春期の子供達が性欲からではなく、単に自分の体の不思議さにたいする純真な興味から、自分の体に触ることについて言及はしていません。
実は、そのような場合に、「何をやってるのよ!」と厳しい態度を取ると、子どもの思考に病的執着と強迫観念をもたらしてしまう可能性があるのです。
さらに悪いことに、その子どもが両親を尊敬していない場合、密かな反抗への道を作りだす可能性があります。
またそのような場合、好奇心や罪悪感が登場してきます。
私達はこの聖書の原則を覚えとく必要があります。
結局の所、私達を罪の刑罰だけではなく、罪の力からも救ってくださったのは神様の恵みなのです。
この恵みの原則は、止めようと勇敢に試みたにも関わらず、自慰行為をし続けている成人の信者にも有効です。
自慰行為を止めることができた!と思ったら、やってしまう。
「あなたは、わたし以上に、自分に厳しくし過ぎている!」
それが、毎回失敗する度に自分をいじめるのを止め、自由を見出すために新鮮なアプローチを取ることができるよう恵みが働いた瞬間だったのです。
そのアプローチには、自分の失敗に執着するのではなく、むしろ神様との親密さを増していくことに重点を置くことが含まれていました。
逃れの道
悔
改めることができるように、根となっている罪の問題を知ることは重要です(そのような啓示は、神様と親密に過ごしている時に与えられます)。
言い換えるなら、的確に原因となっているものを見出し、それを告白する必要があるということです。
それでは、神様の御前で告白する必要がある、根本的な罪の問題とは何なのでしょうか?
1.不信仰:神様が本当に良いお方であることを疑うこと。
罪を犯すと、その瞬間に、神様が本当に自分のそばにいてくださっているのか、つまり自分ことを気にかけてくださっているのかを疑い始め、それゆえに神様が良いお方なのかを疑うようになります。
多くの人は心ではなく、知性で「信じている」だけなので、神様の約束の現れを見逃してしまうのです。
Ⅱペテロ1:3-11、詩篇16:7-8、ローマ8:5-14、ガラテヤ5:16といったみことばを思い巡らし、黙想し、心で信じてください。
実のところ、神様は独身者のためにさえ、自慰行為よりもはるかに素晴らしいものを用意しておられるのです。
神様は、人の性的な一面に満足感と完全さを与える、より次元の高いものを用意しておられます。
この真理を理解することは、罪を捨て去るよう説得されている私達にとって、非常に効果があります。
2.偶像崇拝:エペソ5:3-5とコロサイ3:5は、性的不品行は一種の偶像崇拝であるとはっきり語っています。
いかなる神を崇拝するのと同様、自慰行為には、それ独自の崇拝対象と儀式(決まりきったやり方)があります。ほぼ恍惚状態のような至高体験へと人を誘う、時間、場所、きっかけ、決まった道具、決まったやり方です。
そのような儀式的な偶像崇拝を告白し、それら様々な要素を取り除き、捨て去ることが、その力が打ち砕かれるのを見る秘訣なのです。
さらに、自慰行為はしばしば、特に大きな痛みを通っている人達にとって、命と平安の源となってしまっています。
その習性が彼らの意識にしっかりと染み付いてしまって、それ無しの生活を想像することが不可能になってしまっています。
そうであったとしても彼らは自身のトラウマが癒されることを求める必要があるのです。
3.反抗心:時に、私達はただ単に、聖霊様の御声に聞き従うことを拒んだり、あるいは聞こえない振りをします。
つまり、私達が、自分が反逆していたことを認め、そして神様を愛し、(真実な愛の土台として与えられた)自由意志の必要性を信じるという両方の選択をするなら、神様が完全な愛と高潔さをもって働いてくださるのです。
「私達は罪を犯す必要がある」、「自分には罪を犯す権利がある」、「これは今、大変な試練を通っている私の事を考慮して神様が最低限許してくださるものだ」と言い張るのです。
神様にたいするより大きな愛は、神様を深く知るために時間をかけた結果、生じるのです。
十字架について思い巡らすことも、重要な鍵です。
そうするなら、選択がより一層簡単になっていきます。
5.自己欺瞞(自分を欺くこと):長い年月の間に、私達は自分自身を欺き、本当は手放すつもりが全くないものから自分は自由になりたいんだと信じ込ませる名人となってしまっていたことに気がつくのは屈辱的です。
6.自分の力で正しくなろうとすること:私達の多くが、分別のある人達でさえ、絶えずこの罠に落ちてしまっています。
自慰行為や様々な罪のとりことなる背後には、ここで全てをリストするのは不可能な程多くの考えられる要塞があります。
だからこそ、神様との親密な関係と神様からの啓示を追い求め、主が語られることを行う事が、本当のところ逃れの道なのです。
そうするなら後は、神様が聖霊様のささやきと力によって、あなたを真の解放へと導いてくださいます。
デイビッド・カイル・フォスター博士(トリニティ―神学校にて神学修士号と神学博士号を修得)
Transformed Into His Image とLove Hungerの著者。Pure Passion Mediaの創設者兼監督。
Copyright Charisma Media, USA. All rights reserved.
至高体験 関連ツイート
好きなペアとシーンを選んだよ!
西木野真姫ちゃんと矢澤にこちゃんが遊園地でドキドキ☆ アトラクション体験
国木田花丸ちゃんと黒澤ルビィちゃんが温泉でまったり…小旅行気分♪… https://t.co/Pplz8MxGil
あなたの2019年の願い事を教えて!】
至高のもふもふ体験したいです
https://t.co/iCQzeE0XbL #PSO2esお題