至高体験をお探しの方集合ー♪

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至高体験 ジャーナリスト宣言。

聖書は本当のところ自慰行為について何と語っているのか?
〜聖さの中で生きたいと渇望しているあなたへ〜

デビッド・カイル・フォスター

人はしばしば、聖書はなぜ自慰行為(マスタベーション)について直接的に語っていないのだろうかと不思議に思っています。
自慰行為は、キリストの体の中で沢山の罪悪感と憶測を引き起こしています。ですから私達は、ギャンブルや喫煙…etcといった事柄に対処するのと同様に、自慰行為が罪なのかどうか考えるために聖書の原則を総括し、判断するようにと委ねられているのです。

聖書の原則

私達の主が教えて下さった聖書の原則をもって始めていきましょう。その原則とはこれです。「誰であっても情欲を抱いて女性を見るものは、すでに心の中で姦淫を犯している。」(マタイ5:27-28)。

誰かとセックスをしているシーンを思い浮かべないで自慰行為(マスタベーション)を行う人が仮にいたとしても、それは極まれです。

それを踏まえるなら、自慰行為は姦淫や同性間の性行為、また人間の頭が思いつく他の性行為の数々と同じくらい悪いものであり、もっと言うならばエペソ5:5、コロサイ3:5、エゼキエル23:49で啓示されている通り、偶像崇拝なのです。
ある意味で、自慰行為は一種の思考ポルノと言えるでしょう。
私達は皆、それが罪であることを知っています。

私達はまた、内におられる聖霊様の内なる証によって罪を知ります。

ただし継続的な反逆によってその証を消していなければの話しです(Ⅰテサロニケ5:19、エペソ4:30参照)。
自慰行為をして罪悪感を持たずに生きている人なんていますか?
自慰行為は罪ではないと自分に言い聞かせている人達でさえ罪悪感を持って生きてます。

さらに聖書は、体は聖霊の宮、神聖な宮であり(Ⅰコリント3:16、Ⅱコリント6:16)、キリストご自身の器官(Ⅰコロサイ6:15-20)であると教えています。
「私達の中におられるキリスト」を売春婦と結んではならないと警告されているなら、なぜ私達は主を私達の思いの中の不道徳な考えや画像に結び付けたいと思うのでしょうか?(Ⅰコリント6:15-17)

聖書はまた、性的不道徳は私達の体にたいする罪だと教えています(Ⅰコリント6:18)。
さらに、Ⅰペテロ2:11は、罪深い欲が私達の魂に戦いを挑んでいると語っています。

とういうことは、自慰行為とそれに伴う不道徳な妄想に携わることによって、私達は自分自身にたいして戦いを挑んでいるのです。
そして、この行為の虜になっている人なら誰でも証言できるように、その戦いは地獄のような苦しみです。

最後に、自慰行為が罪なのかどうか私達が探る時に、しばしば見落とされている非常に重要な聖書の原則がⅠコリント6:12、Ⅱペテロ2:19-20とローマ6:14-23にあります。

なんであれ私達を征服するもの(聖霊様以外のすべてのもの)は、私達に害を及ぼすのです。
要するに「人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。」

貞操の原則

(Ⅰペテロ3:2、黙示録14:4、Ⅱコリント11:2、エペソ5:27、ヨブ31:1、Ⅰテサロニケ4:3-4)

教会史を通して、真剣なクリスチャン達は聖書の貞操の原則によって導かれてきました。
貞操とは、精神的であれ肉体的であれ純潔と性的自制の原則に則って、人生を生きるという考えです。
ある意味、自分自身と他者を尊ぶことです。

そしてそれが、結婚という契約のために健全な性表現を取っておくことを可能とするのです。
また貞操は、キリストと教会の結婚を前もって示し、体現するという人間の性行動の麗しさと神様の目的を実行するということです。

恵みの原則

ここでは、子ども達や思春期の子供達が性欲からではなく、単に自分の体の不思議さにたいする純真な興味から、自分の体に触ることについて言及はしていません。
実は、そのような場合に、「何をやってるのよ!」と厳しい態度を取ると、子どもの思考に病的執着と強迫観念をもたらしてしまう可能性があるのです。
さらに悪いことに、その子どもが両親を尊敬していない場合、密かな反抗への道を作りだす可能性があります。
またそのような場合、好奇心や罪悪感が登場してきます。

私達はこの聖書の原則を覚えとく必要があります。

それは神様の恵みと愛が、不敬虔とこの世の欲にたいしてノーと言うようにと私達を教え諭してていることです(テトス2:11-14、ローマ2:4、5:17、Ⅱコリント5:14)。
結局の所、私達を罪の刑罰だけではなく、罪の力からも救ってくださったのは神様の恵みなのです。

この恵みの原則は、止めようと勇敢に試みたにも関わらず、自慰行為をし続けている成人の信者にも有効です。

主がこの事をはっきりと私に語ってくださった時の事を一生忘れることはありません。
自慰行為を止めることができた!と思ったら、やってしまう。
その繰り返しが続いたある晩、私は自分を責めていました。その時、主がはっきりと私の霊に語られました。
「あなたは、わたし以上に、自分に厳しくし過ぎている!」

それが、毎回失敗する度に自分をいじめるのを止め、自由を見出すために新鮮なアプローチを取ることができるよう恵みが働いた瞬間だったのです。
そのアプローチには、自分の失敗に執着するのではなく、むしろ神様との親密さを増していくことに重点を置くことが含まれていました。

逃れの道


改めることができるように、根となっている罪の問題を知ることは重要です(そのような啓示は、神様と親密に過ごしている時に与えられます)。

これらの1つ、あるいはそれ以上の要塞に気づかない、あるいは手放そうとしないなら、当然、私達は束縛されたままです。
なぜなら引き続きサタンが私達の内に領域を持つからです(ヨハネ14:30)。
それゆえ、この変革のプロセスの大半は、サタンの領域がどこにあるのかを見つけ、神様が与えてくださった手段でその領域を取り除いていくことが伴います。
言い換えるなら、的確に原因となっているものを見出し、それを告白する必要があるということです。

それでは、神様の御前で告白する必要がある、根本的な罪の問題とは何なのでしょうか?

1.不信仰:神様が本当に良いお方であることを疑うこと。
罪を犯すと、その瞬間に、神様が本当に自分のそばにいてくださっているのか、つまり自分ことを気にかけてくださっているのかを疑い始め、それゆえに神様が良いお方なのかを疑うようになります。

イブが神様は自分から良いものを遠ざけているのだと信じ込んでしまった時に、エデンの園で犯した最初の罪を私達は再現しているのです。

多くの人は心ではなく、知性で「信じている」だけなので、神様の約束の現れを見逃してしまうのです。
Ⅱペテロ1:3-11、詩篇16:7-8、ローマ8:5-14、ガラテヤ5:16といったみことばを思い巡らし、黙想し、心で信じてください。

実のところ、神様は独身者のためにさえ、自慰行為よりもはるかに素晴らしいものを用意しておられるのです。
神様は、人の性的な一面に満足感と完全さを与える、より次元の高いものを用意しておられます。
この真理を理解することは、罪を捨て去るよう説得されている私達にとって、非常に効果があります。

2.偶像崇拝:エペソ5:3-5とコロサイ3:5は、性的不品行は一種の偶像崇拝であるとはっきり語っています。
いかなる神を崇拝するのと同様、自慰行為には、それ独自の崇拝対象と儀式(決まりきったやり方)があります。ほぼ恍惚状態のような至高体験へと人を誘う、時間、場所、きっかけ、決まった道具、決まったやり方です。
そのような儀式的な偶像崇拝を告白し、それら様々な要素を取り除き、捨て去ることが、その力が打ち砕かれるのを見る秘訣なのです。

さらに、自慰行為はしばしば、特に大きな痛みを通っている人達にとって、命と平安の源となってしまっています。

ある意味では、それが神様の代わりとなってしまっているのです。
聖霊様こそが自由を与えてくださるお方であるべきなのに、多くの人達は、「自分の人生で一番の平安の源となっているもの、自分が壊れてしまわないように保ってくれているもの」無しで生きるようにと求められていることに気がつき、恐怖でひるんでしまうのです。
その習性が彼らの意識にしっかりと染み付いてしまって、それ無しの生活を想像することが不可能になってしまっています。
そうであったとしても彼らは自身のトラウマが癒されることを求める必要があるのです。
それは、神様への信頼を増すうえで不可欠です。

3.反抗心:時に、私達はただ単に、聖霊様の御声に聞き従うことを拒んだり、あるいは聞こえない振りをします。

しばしば自慰行為という自己療法は、私達が必要とした時にそばにいてくださらなかった(と私達が感じているだけですが)神様にたいする怒りと不信感を覆い隠しているのです。

しばしば子供時代に、私達の要求に応じて神様が私達を助け出したり、変えてくださらないと、私達は心の中で神様を裁き、怒りの根を伸ばしていってしまうのです。
これらは告白と悔い改めによって取り除かれる必要があります。
つまり、私達が、自分が反逆していたことを認め、そして神様を愛し、(真実な愛の土台として与えられた)自由意志の必要性を信じるという両方の選択をするなら、神様が完全な愛と高潔さをもって働いてくださるのです。
4.罪を愛すること:これは、しばしば大量の言い訳の下に埋められてしまっています。
「私達は罪を犯す必要がある」、「自分には罪を犯す権利がある」、「これは今、大変な試練を通っている私の事を考慮して神様が最低限許してくださるものだ」と言い張るのです。

しかし実のところ、私達は神様を愛する以上に、自慰行為を愛しているのです。
これを変えるためには、いかにして神様をさらに愛するかを理解する必要があります。

神様にたいするより大きな愛は、神様を深く知るために時間をかけた結果、生じるのです。

礼拝がライフスタイルとなることが重要です。悪魔の領域はそれには耐えることができないのです。

十字架について思い巡らすことも、重要な鍵です。

主の苦しみにたいする感謝が深くなるにつれ、私達はより一層、進んで「私達を最も魅了してきたもの(ある聖歌の歌詞)」を投げ捨てるようになります。
誘惑された時は、自分にただこう尋ねればいいのです
「今、私は誰を愛しているのだろうか?
今、自分を誘惑しているこの罪だろうか?
それとも、私のために十字架で死なれる程私を深く愛してくださったお方だろうか?」
そうするなら、選択がより一層簡単になっていきます。

5.自己欺瞞(自分を欺くこと):長い年月の間に、私達は自分自身を欺き、本当は手放すつもりが全くないものから自分は自由になりたいんだと信じ込ませる名人となってしまっていたことに気がつくのは屈辱的です。

心の中に居座っている罪を捨て去ることを拒んでいるのに、敬虔な事を語り、敬虔な事を考える。
そのようにして私達は、玉葱のように、自己欺瞞という皮で自分を覆ってしまっているのです。

私達は神様の御前で今も変わらずある不純な動機、心にある邪悪さ、そして神様から「聖くなりたい」という真心からの願いを与えてもらう必要がある事を認めなければなりません。
ユダ24節、詩篇37:23-24、詩篇55:22で語られているように、私達が心から神様に願っている限り、私達をつまずきから守ってくださるのは神様ご自身なのです。

6.自分の力で正しくなろうとすること:私達の多くが、分別のある人達でさえ、絶えずこの罠に落ちてしまっています。

「恵みのみ」、「キリストなしでは何もすることができない」(ヨハネ15:5参照)と口では語りながらも、私達の堕落した性質はひっきりなしに私達の思いを誘惑して、「神様の愛を勝ち取らなければならない。神様に受け入れられるためには、もっと正しく生きなければ」と信じさせようとするのです。

幾度も、私達は肉欲の恥を苦しめ、主が私達のために十字架で勝ち得てくださった御国の人生を生きる事ができるように神様に完全に頼りきる代わりに、自分の力で聖くなろうとするのです。

自慰行為や様々な罪のとりことなる背後には、ここで全てをリストするのは不可能な程多くの考えられる要塞があります。
だからこそ、神様との親密な関係と神様からの啓示を追い求め、主が語られることを行う事が、本当のところ逃れの道なのです。
そうするなら後は、神様が聖霊様のささやきと力によって、あなたを真の解放へと導いてくださいます。

デイビッド・カイル・フォスター博士(トリニティ―神学校にて神学修士号と神学博士号を修得)
Transformed Into His Image とLove Hungerの著者。Pure Passion Mediaの創設者兼監督。

Reprinted with permission from Charisma. 
Copyright Charisma Media, USA. All rights reserved.

至高体験愛好家倶楽部通信♪

魔とは「間」のこと。

魔が差したという言葉を、犯罪行為を行った人から聞くけれど、

そこには魔が入り込める余地のある「間」があるということ。

自分がまともで、

常識がある人間で、

ぜったいに間違うことはないと思っていても。

そこにほんのすこしの「間」があるなら、

いつでもそこに魔があるのだと思っていた方がいい。

禅などでは、参禅中に至高体験が訪れたり、圧倒的な視覚的イメ-ジがやってきたとすると、

それは「魔境である」といい、師にぶんなぐられる。

これはなぜなのか?

至高体験そのものが魔なのではなく、

至高体験をしているその人のなかに「間」があるなら、

その体験を本質的な成長へと活かすことができなくなり、

至高体験によって抑圧された自己愛や傲慢さがあふれだすこととなるために、

それを「魔境」と呼ぶのだ。

究極のところ誰でも至高体験は可能だ。

人里離れた寺へ行き、一か月ほど決められたプログラムをこなせば、ほぼ誰でも「覚醒した」と思えるような至高体験を得ることはできる。

しかし本人のなかに「間」があるなら、それは定着しない。

定着しないどころか、自己愛や傲慢さに囚われ、その後の人生のプロセスのなかで、致命的な欠損をもたらす場合もありうる(もちろんすべてがそうだとはいわないけれど)。

さて。

この「間」とはなんだろう?

たぶん一番わかりやすくいうなら

「ズレ」

のことだ。

言っていることとやっていることが違うとわかっていながらも

ひっこめることが出来ずにいるときにやってくるズレ。

誰かをとても愛し、欲したとき。

ようやくその人と結ばれたとき。

どこかでふっと感じるズレ。

求めているものが現実になったときに

どこかでふっと冷めてしまう温度のズレ。

夫婦関係のなかでのほんのわずかなズレ。

この「ズレ」があるとき、そこに「間」があり、「魔」が入ってくる。

最初はとても小さなズレ・間の感覚。

やがてそれがだんだん大きくなってきて、

決定的になってきたときに、

そこに魔を基にした「善悪」が展開される。

最初はちいさな溝だったはずの人間関係のズレが

巨大な谷底ほどの間に広がっていく。

そしてそこに大きな「魔」が入る。

一度、魔に取りつかれてしまうと

本人のなかでの「善」が「悪(他者へ支配)」となっていることに気が付かなくなり、

破滅的な場所まで突き進むことになる。

大きなところでは戦争もまったく同じこと。

最初は小さなズレ・間だったものがやがて国家的な巨大な谷間にまでひろがってしまう。

そして強力な「魔」にとらわれ、お互いの正義の元に、支配がはじまる。

小さなところでは仕事選びなど。

最初はこれくらいのズレは我慢できると思っていたものがだんだん広がり、自分のやりたいことと求められていることが大きく隔たる間にまでひろがり、そこに「魔」が入る。魔は言う。止まることは死ぬことと同じだと。

そして魔はその人をむしばみ、うつや自殺へまで追い込んでしまう。

仏教やエソテリシズムの教えでは

もし人が全的な成長を遂げていくなら、

「間」に関する自己認識を前提にすることが大きなポイントであると説く。

現実的なズレを修整することが重要なのではなく、

ズレを認識し、いまズレている、ここに間があるのだと、初動のときに気が付くこと。

初動でズレに気が付いていれば、それは「魔」をはらうこことと同じだ。

しかし「甘い誘惑」にとらわれたとき。

抑圧された自己愛や傲慢さが

その「ズレ」を「なかったこと」にしてしまう。

本当はだれでも初動で気が付いてるはずなのに。

そして小さなズレから、大きな間が生まれ、そこに「魔」が巣くうのだ。

魔とは外にある力ではない。

あなたのなかにあるズレ・間がやがて大きくなったときに、そこに魔が生まれる。

初動でズレ・間に気づくこと。

これが「魔」をはらう秘訣。

追。

私もたくさんのズレから、たくさんの「間」をもってきました。

そしてたくさんの「魔」にとらわれ、落ちてきました。

けれどいまわかるのは、すべて自分のなかの「間」をごまかすことから生まれた事象であり、自分自身の内面の現れそのものだということ。

初動で魔をはらうこと。

古来から仏教でいわれるこのことの大切さは、もちろんずっと前から頭では理解できていたのですが、ようやく本当に理解ができるものとなりました。

けれど人間はどこまでも間違うもの。

究極のところ、ズレはだれにでもあるし、間がないひとなどいない。

つまり魔を持たない人もいない。

けれどそのまま落ちていくのか、それとも自分自身のちいさなズレに気が付き、本当に自分がやりたかったことは何なのかをもう一度見直すことが出来るのが、人間です。

間は、魔がはいるものでもあり、いつでも自分で自分を変えることが出来るという大切な「間」でもあるのです。

人間という言葉に「間」が入っているのは、何にでもなりうる間という「可能性の矢」をすべての人が持っているということでもあるのでしょう。

4月1日撮影。息子と父。

●個人セッション 4月満席 だだいま5月受付

・アカシックレコードリーディングセッション
・リリ-スセッション

2019年個人セッションスケジュ-ルは

● ブッダプログラムワ-クショップ&リトリ-ト

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・エジプト「大ピラミッドでの儀式とイシス・オシリス統合の7日間」 残席わずか

詳細は

●ブッダプログラムスク-ル

・自己認識クラス          5月11日開講 残席わずか
・弥勒力クラス           8月24日開講 
・アカシックリ-ダ-養成クラス 8月3日開講

詳細は

至高体験で学ぶ社会学

久しぶりにブログを更新します。

前回は五井先生の「消えてゆく姿」の教えの説明として西式甲田療法の「症状療法」について書きました。その冒頭に書いたように五井先生の教えには「世界平和の祈り」「消えてゆく姿」「守護の神霊への感謝」の3つ柱があります。

そして世界平和の祈りは守護の神霊への感謝で締めくくられています。

世界人類が平和でありますように

日本(にっぽん)が平和でありますように

私達の天命が全うされますように(わたくしたちのてんめいがまっとうされますように)

守護霊様 ありがとうございます

守護神様 ありがとうございます

また五井先生が定められた教義「人間と真実の生き方」の冒頭にも「神霊による守護」が示され、締めくくりには守護の神霊への感謝が世界平和の祈りと共に真の救いの要諦であることを述べられています。

『人間は本来、神の分霊(わけみたま)であって、業生(ごうしょう)ではなく、つねに守護霊、守護神(しゅごじん)によって守られているものである。この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世(かこせ)から現在にいたる誤てる想念が、その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあっても、自分を赦(ゆる)し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真(しん)の救いを体得出来るものである。』

このように神霊の存在を認め、その守護を信ずること、さらに神霊への感謝の重要性を五井先生は繰り返し、述べられていますが、各人を守る神霊について、具体的にこうもおっしゃっています。

一人の人間がここに生きている時には、働いている人間の魂が一つではなくて、うしろに守護神さんが一体、守護霊さんが三体(主守護霊と副守護霊二体)四体の神霊が必ず守っていらっしゃるのです。少なくともネ。それでいろんな人のために尽くしている人や、大きな仕事をしていれば、たくさんの神様が付いて守っていらっしやるのです。自分を絶対守ってくださる方は四体必ずあるのです。

私は若いころからこのような神仏の存在をそれとはなく信じていました。そして五井先生の教えに出会ってからはその存在を身近に感ずるようになりました。

そしてそれが確信へと深まったのには、いくつかの体験がありました。

既にこのブログでは断片的に、それらを紹介してきましたが、今日はそれらをまとめて整理し、合わせて五井先生が守護の神霊の重要な働きについてのべられた言葉を紹介したいと思います。

まず最初は私自身の体験、山本印店との出会いについてです。

山本印店の桃仙(とうせん)先生からおしえられたこと

山本印店は東京、世田谷(せたがや)の知る人ぞ知る、「開運印」で有名なはんこ屋さんです。

山本印店の名前は信頼している人から聞きました。彼からはんこをつくることを薦められていたのですが、当初は開運印などには興味がなく、スルーしていました。しかし仕事上のストレスが高じるようになり、改めて薦められたこともあって、訪問してみる気になりました。

と言っても山本印店は予約を取らねばならず、その予約がなかなか取れないので有名です。しかし運よく予約を取ることが出来、店主の山本桃仙先生からアドバイスを頂く機会を得ました。以来、すっかり先生のファンになり、人生の節目節目で(はんこを作りに行き)アドバイスを頂くようになりました。それは2度目の訪問の折の事です。

現在の私の仕事は経営コンサルタントで、経営、業績改善のアドバイスを生業にしていますが、当時は世間で割に名が知られている会社の役員をしていました。

私はその会社の社長の右腕とか懐刀と周りから言われ、自分もその自負を持って仕事に取り組んできたのですが、徐々に社内で孤立感を感じるようになっていました。

新卒で入試した会社なのですが、社風になじめず、社長との間にもいつしか隙間風が吹くようになり、ついに頼みの社長から役員の退任と子会社社長への就任を言い渡されるに至ります。これはいわば左遷、降格に等しく、それまでサラリーマンとして順調な人生にあった私は失意の底に沈みました。山本印店を再訪したのはその時のことです。新たに設立する子会社の社印を作成する為の訪問でした。

桃仙先生に早速、「社印を作ってほしい」とお願いしたのですが、詳しい話を聞かず、社名のメモを見ただけで言下に「作る必要がない」と言われました。

理由は「この会社は貴方の会社でない、自由に出来ない、だから作っても仕方がない」でした。社長とはいえ自分の会社でないのは事実、その通りです。ちなみにその後しばらくして、本当の自分の会社のはんこを作りに伺った折には、屋号にまでアドバイスを下さり、すぐに作ってくださいましたから、その眼力はホンモノです。

「作っても仕方がない」という言葉を聞いて一層、暗澹(あんたん)たる気持ちになった私の様子を察した先生は詳しい事情を聞いてくださりました。そこで私は問われるままに、会社の事、社長とのことなどを話しました。私は自分の人生が悪い方へ悪い方へと向かっているように感じており、その気持ちは先生にも通じたと思います。私の話を聞かれた先生はこのようなアドバイスを下さりました。

母方のご先祖様が守護霊

その折の先生の言葉です。

「あなたは悪い方へ悪い方へ向かっていると感じているようだけれど、まったく逆。あなたは良い方へ、良い方へ向かっているんだよ。あなたのご先祖様、母方のご先祖様は大変立派な方で、この方があなたを守っている。全然心配することなどない。ところでお墓参りはちゃんとしているかい?(私「母方のお墓はどこにあるかしれません」) ダメじゃない。ちゃんとお参りしないと。」

更にこうおっしゃいます。

「あなたが会社で孤立するのは仕方がない。あなたは大久保彦左衛門*のような人だ。唯一人正しい事を
っている人だから煙たがられ、孤立する。そしてその孤立感や思うようにならない焦燥感が高ずると病気になってしまう。だからあなたを守護しているご先祖様がそうならないように、あなたを安全な方に安全な方に連れて行って下さっているんだよ。」
(注*大久保彦在衛門=徳川幕府、草創期の旗本、頑固一徹な気性で、それを見込んだ家康が三代将軍家光の意見番=耳に痛いことをいう役割、のお墨付きを与えたとの伝承がある)

おそらく、あまりに私がしょげていたからでしょう。更にアドバイスが続きました。

「今は判らないだろうけれど、2年もしないうちに判るようになる。あなたの会社は2年以内に外資との間に大きなトラブル、事件が起こる。その時、もしあなたが役員でいたら、その累(るい)はあなたにも及ぶ。そうならないようにあなたを安全な所へ連れて行って下さっているんだ。この会社(子会社)は何の会社だい?(私「教育やコンサルティングの会社です」) へぇーそれはあなたの天職だよ。あなたはそのために生まれてきたようなものだ。会社はよくあなたのこと見てるよ。だから心配無用。」

概略以上のようなやり取りがあり、はんこを作ってもらえなかった私はがっかりして山本印店を後にしました。そして一年半後の事です。

天職と言われた仕事です。子会社の社長として、意欲をもって取り組んでいましたが、桃仙先生が予言された通りの事件が起こりました。それが原因で私が仕えた2代目社長が辞めることになり、これには正直驚きました。

桃仙先生からはその後、本当の自分の会社のはんこをつくる際に、クライアントであった数社の名前を上げて、どのように付き合えば良いか、質問した時はこのようなアドバイスも頂きました。

「あなたは頼まれたことだけをやっておればよい。あなたから離れていく会社やあなたが見放した会社はダメになるから。」

先の天職というアドバイスと共にこれも大きな自信になりました。

この時の顛末は以下のブログに詳しく書きましたので、興味のある方は読んでみてください。

体験談②守護の神霊の存在を確信した山本印店との出会い

体験談③守護の神霊の働き、「人間万事塞翁が馬」とその後のこと

前述のように、守護の神霊の存在を理解していたつもりでしたが、この体験を通じて、理解は確信へと深まりました。そして桃仙先生のアドバイス通りに母方の墓所へのお墓参りは私の習慣にもなりました。

2つの神秘体験

守護の神霊への確信が深まった別の体験もあらためて紹介します。

まだ私が先の会社の役員だったころの話です。前述のように仕事上の人間関係や責任などから私は少なくないストレスを抱えていました。

当時すでに世界平和の祈りに出会っており、それは大きな力にはなっていましたが、負けまいとする気持ちと孤立感や焦燥感から負けそうになる弱い心の格闘から抜け出せない状態にありました。

そんなある日、白光真宏会の富士聖地の「七つの場の行事」に参加しました。

七つの場の行事はそのころ始まったばかり、初めての参加でした。

参加といっても個人で行う行(ぎょう)で、富士聖地にある片道2-3分の遊歩道に設けられた七つの場で短時間に行います。

七つの場 

七つの場とは以下の七つの場所です。

1. 消えてゆく姿の場

2. 自己否定などの想いを消す場

3. 願望成就の場

4. 光明思想徹底行の場

5. 地球世界感謝行の場

6. 我即神也の場

7. 人類即神也の場

下写真が七つの場への入り口です。

行(ぎょう)と言っても30分もかからないで終えることが出来る簡単なものです。

例えば1の「消えていく姿の場」では自身の心に去来する良くない思い、雑念、妄念、病気や不幸の類をメモ用紙に書いて、世界平和の祈りをしながら炉にくべ、それを燃やします。

その日、私は一番目、二番目を済ませ、三番目の願望実現の場へと進みました。

願望実現の場でもメモ用紙に名前と自分の願望を一つだけ書いて、それが実現する日付を書き、それを封印、所定の場所に安置します。実現したい自分の願望を改めて考えてみましたが、当時は特に物理的な願望はなく、前述の不安動揺にする自分の心に手を焼いていましたので、メモ用紙には「安心立命の境地に立たせてください」とだけ書き、所定の場所に置いて、残りの行を済ませ帰宅しました。

正直言うと、「安心立命の境地」などという抽象的なお願いが短期間にかなうなどとも思いませんでしたから、そのことはすぐ忘れてしまっていました。

49日目の至高体験

それから一月少し経ったころ、当時、白光真宏会の本部があった市川市の聖ヶ丘道場の練成会に参加していました。練成会とは聖ヶ丘道場で当時定期的に行われていた世界平和の祈り(統一)を中心にした行事です。

その日の何回目かの統一を行っていた時のことです。目は閉じたままでしたが、ハッキリした意識があります。突然球体の中心に座っている自分を感じました。手を伸ばしたわけではないのですが、手で触れたような球の感触を実際に感じました。さらに私を包むようなその球体を意識したとたん、私の意識が自分の胸の中心に向かって収縮していく感覚を感じました。どんどん私の中心に意識が向かいます。そしてそれが一点に収縮、行きついた先に「安心立命の境地」がありました。

何とも言えない幸福感、何とも言いようのない安心感、そして何とも言いようのない快感がそこにあります。「至高体験」と言っても良いものでした。そして私は求めていた究極の安心立命が自分自身の中にある事をハッキリ認識しました。そう思ったとたん私の耳に五井先生の霊笛と柏手が聞こえ、練成会の統一修行の場に戻っていました。

最初は何が起こったのかよく判りませんでしたが、よく考えると七つの場での私の願望が聞き届けられ、守護の神霊の導きで、私がいつか行くことが出来る「安心立命の場」に私の意識を連れていって頂いたのだ、ということが判りました。

その後、大ベストセラーになった「神との対話」を読んでいる時に、天国だったか、神様のいらっしゃる境地だったかを問う質問に対して、「永遠に続くエクスタシー」と答えているのを読んで、「それだ!」と思ったことがありますが、それは明瞭な意識体験でした。

これには後日談があります。七つの場の行事の日から、この体験の日がピッタリ49日目であったことに、後日気がつきました。7は神様に縁がある数字で、7×7=49も意味のある数字です。私にはとても自力であのような境地へ行けたとは思えませんから、49日目に気がついたとき、「お前はね、ここまで来れるんだよ」「心配いらないんだよ」と私を守護して下さる守護霊、守護神が教えて下さったのだ、と改めて確信できました。以降、更に守護の神霊の働きへの感謝の念が深まったのは言うまでもありません。

ただ、この体験があったからといって、それが何か特別なことだとは今では思ってはいません。また自分が特別だとも思っていません。

誰にも霊性、神性があり、そして守護の神霊がついていらっしゃいます。私は幸い世界平和の祈りや七つの場を機縁にして、霊性、神性に触れる機会を得ることが出来たというだけです。

そういう体験をしましたが、その後も不安動揺の心が出て来ましたし、常時、安心立命の境地にいるわけでもありませんでした。

しかし、この体験は目には見えない守護の神霊の実在を明瞭に認識する良い機会になりました。

だから、誰がなんといようが、神様はいらっしゃいますし、より身近には先祖や縁のある悟った方が神霊となって四六時中守ってくださっていると確信をもって言えるようにもなりました。

過去のブログではこの体験と共にもう一つの体験を紹介しています。それが「妖怪との遭遇」です。

妖怪との遭遇

これも上の体験の前後にあったことです。ある日、仕事で京都に行くことがあり、定宿にしていた「河原町三条上る」にある老舗ホテルに投宿しました。その夜は得意先の接待。京風の町屋で中華料理屋をご馳走になりましたが、紹興酒が進み、9時過ぎにはすっかり酔ってしまいました。二次会の誘いを断り、呼んでもらったタクシーでホテルに戻り、ようやく部屋にたどりついた私はジャケットも脱がずにベッドに倒れ込んでしまいました。

その日はツインのシングルユースで、奥のベッドに倒れ込みましたが、真夜中過ぎ、寝苦しさに目を覚まし、ジャケットとズボンを脱ぎ、再びベッドに横になりました。その後すぐの事でした。私の後方のもう一つのベッドあたりで「クシャクシャ」と新聞紙を丸めるような音がしました。

すぐ側で聞こえたので、慌てて振り返りましたが、何もありません。外の廊下を誰かが通ったのか、と思い直し、もう一度同じ姿勢で横になった途端の事です。横向きに寝ている私のベッド側の右半身に、それこそ10本くらいの手で触られる感触をハッキリと感じました。それが、あまりに明瞭な感覚だったので、飛び起きました。

直前の新聞紙を丸めるような音、それに続くこれです。私はこの部屋に問題があると思いました。よく耳にする幽霊の出る部屋に違いない、と思いましたが、さほど幽霊を怖いとも思いませんので、「まぁー仕方ないな」と、「もう出るなよ」程度の事を思いながら、再びベッドに横になりました。

その途端、同じことがもう一度起こりました。10本程度の手のようなものでベッドの中から触られたのです。

「これはもう寝てられないな」と思い、仕方がないので持参のパソコンを立ち上げて、前日出来なかったメールのチェックや仕事上の連絡などを始めました。そのうちに空が白みだし、鳥の鳴き声が聞こえるようになりました。

「もう大丈夫だろう」ともう一寝入りしようとした時に、そのホテルに連泊の予定だったことを思い出しました。さすがにこの部屋に連泊は出来ません。結局、ネットで別のホテルを取り、二泊目はキャンセルしました。

チェックアウト時、クレームの一つも言おうとも思いましたが、大人げないとも思い、キャンセルの理由を「予定が変更になった」としてホテルを出ました。

私は霊感、霊媒体質ではありませんので、それまでも、それ以降もこのような体験をしたことはありませんから、不思議には思いましたが、しばらくそのことは忘れていました。

このことを改めて思い出したのは、先に山本印店を紹介してくれた彼と仕事の打ち合わせをしている時でした。

彼は五井先生にもご縁のある方で、優れた霊覚を持っている人です。優れたというのは、彼の霊覚の確かさはそれまでの付き合いで何度も経験していたからです。

幽霊でなく妖怪?

彼との打ち合わせ中、このホテルでの体験を思い出し、初の幽霊体験として話をしました。

彼は首をかしげ、「それは幽霊じゃなく、一番近い表現で言えば妖怪ですよ。」と言います。

「それは何です? また、なぜそんなのが出たんです?」と重ねて尋ねる私に「マクラガエシって判りますか?そういった類です。」と言い、更に、「不思議なのはなぜそこに来たのかですね。横井さんとそれは全く関係、縁がないんですよ。出てくる理由がわからない。」と答えてくれました。

前述のように、彼の霊覚には信頼が置けましたので、そういう事もあるのか程度に納得し、しばらくそのことは忘れていました。

そして、それから数ヶ月、都内のホテルのロビーで、再び彼と仕事上の打ち合わせをしていたときのことです。

たまたま隣の席にいた年配の男性二人の大きな声の会話の話題が古い漫画のことだったことから、幼い時に水木しげるの漫画に強い印象を受けたことやそのタッチの印象が強烈だったので水木しげるの原画を探していることを彼に話しました。

それを聞いた彼は即座に「それで判りました。水木しげるですよ。先日のホテルの妖怪の原因は。」と言い、このように語ってくれました。

「横井さんが水木しげるに意識を向けたんですね。しかもわりに長い間原画を探していましたね。それで横井さんと水木しげるとの間にいわば道が出来たんです。その道をたどって、ホテルの妖怪がやってきたんですよ。水木しげるという人はそういう人、いわば妖怪たちの世界との接点なんです。だからそこに意識を向けるとそこにいる妖怪との道が出来るんですよ。それで横井さんに興味を持ったか何かで、それが出てきたんです。」

これを聞いて私は「なるほど」と思いました。これまでも何度か書いてきましたが、私たちの世界が異次元に包まれていることは、物理学、量子力学の研究から明らかになっています。私たちがいるのは、縦横高さの3次元空間に時間を加えた四次元世界ですが、研究では11次元世界までの存在が認めら
ています。

それらの世界は我々のすぐそばに存在しています。すぐそばと言っても空間的概念ではありません。敢えて言えば重なっている、織り込まれている、というのが適切な表現でしょう。そして異次元世界を大きく分ければ、これまで何度か書いてきたように幽界、霊界、神界がそれにあたります。私のところにやってきた妖怪の世界は幽界にあるのでしょう。

それらの世界は目には見えませんが、存在します。目に見えるもの、耳に聞こえるものしか信じない、というのは科学的ではありません。

可視光線は人間の目に見える範囲の波長の電磁波ですが、目に見えない赤外線や紫外線が存在しないという人はいないでしょう。狩猟で猟犬を呼ぶときに使う犬笛の波長は人間には聞こえないものですが、犬には聞こえます。見えなくとも、聞こえなくとも「存在する」ものがあるというのは少し冷静になれば判ります。

すべてのものは波動ですから、波動が違うものは交わりません。見えませんし、聞こえません。物理学や量子力学で言う多次元世界はそういうもので、幽界、霊界、神界も同様です。見えないから「ない」のではありません。

少し脱線しましたが、水木しげるに向けた私の意識をたどって妖怪がやってきたことから気付いた大事なことです。

それは意識の力です。妖怪にだって届くのですから、もちろん神様にだって届くでしょう。前述の七つの場の体験も同じように考えることが出来ます。七つの場を通じて私の意識が一層強力に守護の神霊に向けられたのではないでしょうか。

そう考えれば、「守護霊さま有難うございます、守護神さま有難うございます、」という感謝の思いはそのまま道になり、守護霊、守護神を身近に引き寄せ、縁ある人、子孫たちを守りやすくしてくれるんだ、だから守護霊、守護神への感謝が大事なのだ、という事になります。これらの体験は改めてその事を深く認識する良い機会になりました。

五井先生の教え

五井先生もこのように仰せです。

守護霊にとって、一番働きやすい、肉体人間の状態は、常に守護霊のほうに心を向けていてくれることである。守護霊の存在のいかに重大であるかを知って、常に守護霊に感謝を捧げている子孫ほど、守りやすい肉体はないのである。

これは「意識を向けさえすれば通じるのである」という私が妖怪体験でもてた確信を裏付ける五井先生のお言葉です。

桃仙先生の「お墓参りをしなさい」という言葉も、守護の神霊への感謝の念がその守りを一層強く、確かなものにする、という事をおっしゃったものです。

だからお墓参りや仏壇に手を合わせることには大事な意味があります。もちろん、お墓や仏壇の中にご先祖や守護霊がいらっしゃるわけではありません。

しかし、通常、人は具体的な対象があるほうが、その気になるものです。何もないより対象が明瞭なら本気になって感謝をささげることが出来ます。一種のアンテナが立っていると考えても良いでしょう。

夢も守護霊の尊い働き

五井先生は目に見えない守護の神霊のさらに「目につきにくい」重要な働きが「夢」であると、このように教えて下さっています。

神は愛である。愛であるから、守護神を我らにつかわし、守護霊を任じて、人間世界の悪因縁を消滅し去ろうとしているのである。守護霊を信じ、守護神を想い、神に感謝しなければ、いくら因縁の転回や、心の法則を知ったところで、人間は永久に救われない。

こちらが知っても知らなくとも、守護霊はただ、黙って人間を守っていてくれる。夢などはその顕著なるものである。

夢は何故見るか、この問題は世界の学者が種々と研究をつづけているのだが、いまだに、はっきりとわかっていない。夢とは人間の業因縁の消滅する姿である、と私はいう。想念は必ず現われる。この法則は動かしがたい法則である。この法則のままに、想うことがそのままこの肉体界に現われたら、この人生は、もっともっと以前に滅びていたに違いない。

何故ならば、肉体の人間の心を奥底まで解剖すれば、愛は情に流れて執着となり、恨みは恨みを重ね、悲しみは悲しみを追い、闘争心は常に戦火を絶やさず、情慾業火は至る所に燃えひろがり、殺傷事件は眼に触れるあらゆる箇所に展開されていることは明らかである。

この業念の感情を、肉体脳髄の念の休止している間に、巧みに夢として肉体世界と離して、画き出してしまうのが守護霊の偉大なる一つの仕事なのである。現われれば消えるのが想念の性格であるので、夢として画き出されてしまえば、その想念は消えてしまう。

肉体世界に現われた場合は、その現れが、また頭脳にキャッチされて、再び同じ想念を幽体に記録してしまうが(それでも現われれば幾分ずつか、消えてゆく。)、夢の場合はその想念が巧みに戯画化されていて、いったいなんの想念であるか判然としないので、醒めた後人で、いくら肉体頭脳で思ってみても、その夢に現われた想念は再び幽体に記録されることはない。その想念は夢によって一度断ち切られるので、業因縁がそれだけ消えたことになる。

五井先生は、夢はこの肉体界(現世)に表れるべき悪想念を夢という形で顕し、消してしまう守護霊の働きだとされて、更にこのようにおっしゃいます。

たまたまはっきり憶えている夢もあるが、守護霊が予知的に、その人に示す夢(霊夢)以外は、その夢の画が、やはり、その想念の内容を察知できぬように描いてあって、判然としない。フロイトという精神分析学者は、この夢をすべて性欲(リビドー)の現れと解釈していて、夢に現われる物質、風景、氏名等によって、それぞれの内容を解剖しているが、私の述べていることとはまるで異なる解釈で、人間の救いには、あまり役立たぬものと思う。

判然としない夢は、そのまま判然とさせる必要はないので、ただ、簡単に、自分の悪想念が肉体の悪い運命となって現われるのを、守護霊がその夢と現わして消して下さったのだ、と感謝すればよいのである。このことを知ることは大きな救いになると思う。

この守護霊の働きは真に感謝しなければならぬものである。守護霊は霊界、幽界、肉体界と三界を通して働ける者なので、幽界において、できつつある運命、あるいはすでにできあがって、時間の経過につれて自然に肉体界(現界)の運命として現われようとする悪想念の結果(因果)を、あらゆる手段をもって、その人間の運命として現われぬように修正してゆく。

自分が過去(過去世も含めて)に発した想念行為は善悪を問わず、必ず自分に返ってきます。これが因縁因果、因果応報の理法です。善い方の因果応報はどんどん現れて、受ければよいのですが、悪い方の因果応報については、守護の神霊がなんとか小さく、軽く済ませられるようにと、工夫をされていらっしゃるのでしょう。夢は正にそんな働きである、という五井先生のお言葉です。これに関わるような体験を以前のブログに書いたので、これもあわせてここに紹介します。

ストーカー事件

私の実家は大阪府枚方市にあり、実家に帰った時のことです。私の習慣は朝の散歩で、その朝も近隣で小一時間の散歩を楽しんでいました。

その帰り際です。前を歩いていた四十歳くらいの男性からいきなりストーカー呼ばわりされたのです。

前を歩いていたと言っても、私は脇道から彼の歩いている道へ出たばかりで、ほとんど出合い頭に近い言いがかりでした。私は何のことかわからず、一瞬絶句しましたが、彼は「ずっとついてきている」「何かうらみがあるのか」「いい加減にしろ」などと一方的に罵声を浴びせかけてきます。

もちろん初めて会った男性でしたから、理不尽に対して反論しましたが、彼は聞き入れません。その日は仕事があり、余り時間を取るわけにいかないので、どなる彼を振り切って、帰路につきました。幸い彼は追っては来ません。

帰宅するまでほんの5分ほどでしたが、男性を振り切った直後は理不尽な彼への怒りで頭に血が上り、心拍数も上がっていたのですが、家に着くころにはすっかり気持ちが穏やかになり、彼への感謝の気持ちすら湧いてきました。

なぜそのように心境が変化したのかですが、それはこのように考えることが出来たからです。

人生で起こることには必ず原因や理由があります。さっきの理不尽なストーカー呼ばわりにも理由があるはずだと考えていたら、あれは「消えていく姿」だったという事に気がついたのです。おそらく私には誰かと争い、もしかすると怪我でもするような因縁があったに違いありません。原因があれば必ず結果が生じます。その現れるべき因縁をたまたま通りがかった少しおかしな男性からの言いがかりという形で表して、小さく、消してくださったに違いない、ということが理解できたからです。

「消してくださった」としたのはそこに守護の神霊の働きを感じたからでした。

私はこの事を真実そうであったと思っています。

五井先生はこのような守護霊、守護神の働きをこう教えてくださっています。

過去世の借金というか、過去世の因縁として悪い行ないをし、悪い想いをしていたら、それだけが現われて消えてゆくわけです。
その悪い行ないというのはどういうのかというと、神のみ心から離れているもの、大調和精神のみ心から外れているものです。
そういう業がある以上は、神様のみ心の中にスッカリのれません。神のみ心にスッキリとつながるのを邪魔する業想念というものを、病気や不幸や災難にして出して消してしまうわけです。
業がある以上はどんなことをしても、それが出てくるわけです。しかし、守護霊、守護神につながり、祈り心で加護を願っていますと、守護霊、守護神が肩替りしてくれるのです。
百ある業想念を九十背負ってくれ、あと十だけ肉体のほうへ出して、肉体は十だけのものを背負っていけばいいようにしてくれるのです。
いっぺんに千だとか万だとかたくさんのものを出したら苦痛が激しくつぶれてしまうから少しずつ出して消してゆく。人間側に力がつけばそれだけのものを出してゆく。
そしてあまり気が付かないうちに出してしまって、苦しみ少なくてこの人生を過ごしてゆけるようになるのです。ですから守護霊、守護神の加護というものは大変なものなのです。
五井先生はこうもおっしゃっています。
消えてゆく姿というのは、自分が消すのではないんですよ。(中略)自分で消せるようならば、みんな悟れて楽なもんですよ。自分で消せないところに、守護霊守護神がいて、神様の愛が本当にそこでわかるのです。この世というものは、自分ではなんにも消せない。自分で消すものは一つもないです。みんな守護霊守護神が消してくれる。

散歩中のストーカー呼ばわりの時に、怒りを感謝に置き換えることが出来たのはこの五井先生の教えが思い出されたからです。だから家に帰るまでの数分、ずっと心の中は神様、守護霊への感謝で満たされていました。

このブログで改めてこのエピソードを紹介しながら思うのは、人生で起こる不幸や不都合の原因は過去の自身の想念、行為にあり、それが自分に戻ってくるという因果の法則の問題であるということ、さらに子孫や被守護者が出来るだけ苦しまないように、痛みが小さくなるように力を尽くしてくださっている守護の神霊の存在がある、ということです。

< p>そして人生の不幸や不都合こそ、幸せや人間としての成長への転換点として真に喜ぶべきものであり、神霊への感謝とともに受け止めねばならないものである、ということです。

守護霊の働き方

五井先生は更に具体的な守護霊の働きをこのようにも教えて下さっています。

いったいどういう風に守護霊が運命を修正してゆくかというと、種々の方法がある。

例えば、転覆した汽車に乗るべきを、忘れ物をして乗り遅れたため、生命の危機を逃れた。

という場合、物を忘れた、この忘れ物に守護霊の働きがあるので、守護霊の念がその人の肉体頭脳に働きかけ、その人の頭の回転を瞬間的に阻止して物を忘れさせるのである。

また他の人を使って、自分の守護する人間を助ける場合もある。例えば、ある人が、何か急に友人Aを尋ねたくなり、別段に用事もないのに、急用でもある気持で、その友人を尋ねる。と、友人A一家は、事業に失敗して、今まさに一家心中の手前であった。驚いたその人はその友人の為に早速一肌脱いでやることになった。この場合、Aの守護霊はAを助けるため、Aと波長の合う友人のある人に思いを送り、Aの家へ引き寄せたのである。この友人なら、Aを救ってくれる、ということを、守護霊ははっきり知っているのである。この二つの例のようなことが、常に人間世界の生活の上に起っているのである。

五井先生は守護の神霊の働きがどのように行われるかの例を上のように紹介され、このようなことが常に人間世界の生活に起こっているともおっしゃっています。それはもう涙ぐましいほどの働きがあると次のようにおっしゃってもいます。

守護霊はその被守護体の眠っている時から醒めて働いている時、休んでいる時、いついかなる時間にも、この人間を守りつづけているのである。そして、この人間の発する悪想念の蓄積を浄めるために、たゆまざる努力をつづけているのである。もっとも、肉体界(現界)の救いとしては、この人間にでき得るかぎりの努力、経験をさせつつ、いざという時に助けるのである。

守護霊は子孫や深い縁のある守護の対象者の真の救われ、魂の進化、成長に必要な努力、経験をさせつつ、見守ってくださっています。お話は続きます。

やっと眠りの世界に肉体が入った時、無心になった肉体脳髄から、悪想念の蓄積(その時々の因縁)を夢として消すことより仕方がない。

そこでこうした人を守るためには、先程の二例のように、他の人に送念して、他の人から注意や、助太刀をしてもらうことにする。この時の相手は、必ず過去世において、守護霊同志、または、肉体人間同志が、因縁浅からぬ者でなければ駄目なのである。

しかし時には、その被守護体の人間が、あまりにも業因縁が深く、迷(無明)で分霊の光をほとんど覆ってしまっている場合には、いかに守護霊が全力を挙げて浄めたり、奔走したりしても、通じない。仕方がないので、守護霊は、守護神に救援を願うのである。

すると守護神はこの願いを聞き入れて、大いなる神の光を、その肉体人間に放射する。この光は業因縁を通して、分霊に通じ、分霊の光の力が増してくる。この時、なんとなくこの肉体人間の心(脳髄)に宗教への関心が湧いてくる。この場合、たんにご利益信心的な心であるかも知れない。それでもよいのである。この人間にとっては、その気持の起ったことが、一歩も二歩もの進歩なのである。その時、守護霊は、その機会を逃がさず、その人間に適当する宗教に、その人間を導くのである。

五井先生は更にこのようようにも仰せです。

(守護の対象者が)苦しくてどうしようもなくなれば、必ず守護霊さんが連れてくるんです。それで消えてゆく姿をやらせるんですよ。消えてゆく姿というのは、自分が消すのではないんですよ。

よく間違えて、自分がいき張って消すんだと思っている。コンチクショウと思って消そうと思うのですが、なかなか消えない。あれ邪魔だから消しちまえ、なんていうのではないのです。自分で消すのはそれは自我です。あるいは自力というのです。

自分で消せるようならば、みんな悟れて楽なもんですよ。自分で消せないところに、守護霊守護神がいて、神様の愛が本当にそこでわかるのです。この世というものは、自分ではなんにも消せない。自分で消すものは一つもないです。みんな守護霊守護神が消してくれる。

たとえば短気の想いがあるとする。これを消さなきや消さなきや、消そうと思っても、思うそばから出てくる。恐怖でも同じです。恐れまい恐れまい、恐怖してはいけない、いけないと思っていると、よけいに恐ろしくなってくる。そういう経験がありますね。

それは自我なんです。力みというんです。よほど強い人をのぞいて、ふつう一般の人では消すことは出来ない。そこで私は、消してゆく姿ではなくて、消えてゆく姿というんです。決して消してゆく姿とはいっていません。消えてゆく姿なのです。

それでもなかなか消えない場合にどうするかをこうも仰せです。

また、ある場合は、守護神の光によって、一挙に幽界に転出してしまうことがある。いいかえれば、急死してしまうことがある。それは、そのほうが、この人間の進歩に都合が良いからである。

厳しいお話ですが、守護される当人に一向に自覚が生じず、これ以上地上にとどまっても進歩がない、運命の修正がままならない場合は、死によって、運命の修正が可能な世界に転出、移行させることもある、ということです。そして、守護霊、守護神への全託と感謝こそが幸福な人生への直道であることを教えてくださいます。

以上のように守護霊は肉体人間と一つになって、人間を善導しているのである。人間が、自己の運命を改善し、幸福になりたいとするならば、ただ、守護霊に自己の運命を委せればよい。守護霊さん、ありがとうございます、守護神さん、ありがとうございます、神様、ありがとうございます、と常に感謝していればよい。

この心が神への全託なのであり、守護霊の活躍を充分にさせる一番よい方法なのである。

この心でいれば、その人の行動はおのずから、調和した整ったものになり、生活は楽しく楽になるに決まっているのである。

今日ここで紹介した自身の体
験からも、これらの五井先生のお話は「その通り」だ、断言できます。また五井先生はもし迷った時は守護霊に尋ねなさい、とおっしゃっています。今日の締めくくりに紹介します。

もし迷う事柄があったら、心の中で守護霊さんを呼びながら、その裁断を願えば、必ずなんらかの形で、その答をしてくれる。それは前に述べたように他の人に逢って、その人の口から聞かされるかも知れぬ。あるいは、ピンと直感的にひらめくかも知れぬ。ただ、この場合、前者なら、最初に逢った人であり、後者なら、最初の直感、第一直感が、その答である。

その答がいかに、現在の自分に都合が悪いように思えても、それは後によくなる方法に違いないのである。それを信じなければならぬ。第二直感で出てくることは業因縁の答であるから、よくよく注意せねばならぬ。

そこで、私は迷った時は氏神様のおみくじを引いたら良い、と思います。またそのようにアドバイスをし、良い結果を得たことがあります。

おみくじは守護霊、守護神への感謝を念じ、「どうか良いアドバイスを下さい」と思いながら引くのです。その場合、内容が大事ですから、吉凶に動じず中身をよく読んでみたらよいのです。そこにヒントがあるはずです。

長くなりましたので、今日はここまでとします。近いうちにこの続きを書こうと思います。

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