至高体験銀座通販ショップ

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至高体験のなかよしこよし

幸せの真理に辿り着きはじめた、覚醒者のたむです。

覚醒したので毎日が喜楽で超幸せです。

とても満たされて充実した毎日です。

このブログの趣旨ですが、『幸せに生きる』ということをテーマにしています。

幸せに生きる為に様々な経験をして『幸せに生きることの本質に覚醒した』たむの智慧を紹介しています。

たむの智慧は、『ライフ&ソウルヒーリング』という形で、方法論を確立しています。

実体験に基づいているので効果的・現実的です。

前回のブログは人生に答えはないでした。

人生の質を良くするためのHOW TO本はいっぱいありますが、それは人生を良くするための方法論であり答えではありません。

人は今世で予定してきた課題があります。

ですから、持って生まれて来たものが違います。

その為、幸せの形は人それぞれ、型にはまった答えなんてありません。

ちなみに、持って生まれて来たものを宿命と言います。

ただ、全人類に共通している宿命があります。

それは、脳内物質による心身の反応が変わるというものです。

そして、それが人生の応え(こたえ)になることも全人類共通の宿命となります。

この応えというのは、自分の体験に対する心身の反応という意味になります。

つまり、体験に対する心身の反応の積み重ねが、自分の人生に対する自分で出した応えということになります。

人の為に何かをするのも、自分への応えを得る為です。

自分の為に何かするのも、自分への応えを得る為です。

何もしない選択も、自分への応えを得る為です。

応えとは反応のことです。

反応とは脳が出す脳内物質(脳内麻薬)のことです。

人は脳内物質(脳内麻薬)という応え(ご褒美)の為に生きているのです。

そして、脳内物質の中でも幸福感を得られるものをたくさん必要としています。

この幸福系脳内物質の量と質がある状態に達した時、至高・至福体験をすることがあります。

心は澄み切ったような状態になり、即ち悟りを開いたかのような状態になる場合もあります。

このような状態になった時、潜在能力が解放されることがあり、神秘体験をする場合もあります。

いずれも人生を一変するような、生まれ変わったような感覚になる体験です。

その後の生き方に大きな影響を与える場合が多くあります。

人が生きる大きな理由のひとつとして、この究極のご褒美を得ることがあります。

そして究極のご褒美とは、自分の脳内から出る脳内物質です。

自分の外側には存在しません。

究極のご褒美までいかなくても、自分の中から良い応えが毎日多く出てくるようになれば、今世のノルマを多く解放できる状態となるので、かなり幸せな人生となります。

また、来世から新たなステップに進むことができるようになっています。

自分の応え方というのは、過去世からの魂の記憶、今世の記憶、全人類の記憶(集合意識・アカシックレコード)という数種類の記憶からできています。

ですから、不快反応をする記憶(カルマ)が多いと、何事にも不快な応え方をしやすい世界で生きることになってしまいます。

人は過去世からの魂の記憶により、生まれる場所と性別を選びます。

過去世からの魂の記憶により個性も備わっています。

今世に大きな影響を与えるのは選んだ国、家系、性別です。

それと選んだ国という集合体の記憶、家系の記憶(家族連鎖)、親の記憶となります。

いわゆる機能不全家族に生まれてしまい、ある年齢まで毒家族・毒親の悪影響下で生きることを余儀なくされる場合があります。

受け入れ難いことですが、生まれる場所・家系・性別は、生まれる前の自分が考えて決めたことです。

今世でカルマを解放し魂を成長させるための修業の場として選んだのです。

でも、ちょっと間違っちゃったかな~^^; という場合もあるようです。

この場合かなり辛いのですが、自分の中の応えを変えることで人生を変えることができます。

一人で悩まないで、たむにご相談下さいね。

生まれ育った環境や性別は自分で決めた初期設定(宿命)となります。

初期設定は人それぞれ全く違うし、カルマ解放のための課題も全く違います。

ですから、何をすれば幸せを感じるかは人それぞれです。

幸せを感じるのは幸福系脳内物質が分泌された時です。

カルマを解放するほど、幸福系脳内物質は素早くたくさん分泌されるようになります。

また、至高体験に繋がる上質の脳内物質も出やすくなって行きます。

幸福系脳内物質が出やすくなるほど、自分の能力(脳力)が解放されるような状態になり、その後の人生に幸せな影響を与えます。

頑張ってたくさんご褒美をもらった方が、より人生は良くなって行くということです。

ですから、自分が日々生きている世界で体験していることに対して、快反応をたくさんすることが幸せへの答えだと言えます。

その為に、幸福系脳内物質を多く出せるように、反応の仕方を変えることが大切になります。

また、快反応をしやすい環境に移動することも大切です。

不快な人生から流れを変える為には、自分の応え方を変えることと、良い応え方をしている環境に身を置くこととなります。

自分の反応=応え方というのは、頭で考えても簡単には変わりません。

今まで嫌いだったものを好きになること、離れたいけど離れられない人やものから離れること。

どちらも理性で分かっていても、なかなかできることではありませんよね。

嫌いだったものには不快系脳内物資がドバドバ出ます。

脳内物質は麻薬の数百倍の効果があります。

理性で脳内物質の反応を覆すには、強靭な意志が必要になります。

条件反射の生理現象を変える訳ですから。

今まで依存していた人やものから離れることも、脳内物質の影響で簡単にできない場合があります。

これは思い出や情ではなく、脳内物質(脳内麻薬)の影響で離れることができないのです。

思い出や情は、脳内麻薬がつくり上げた幻想です。

恋愛で例えると分かりやすいですね。

好きになった相手がモラハラ・DV人だったとしても、最初はお互い良いところを見せるので未来への期待値が高まります。

特に女性は様々な幸福系脳内物質がドバドバ出るので、もの凄い幸福感を得られます。

また女性ホルモンも多く出て、美容と健康にも良い影響が出ます。

女性が恋に生きるのはこうした脳内物質の影響によるものです。

好きになった男=幸福系脳内物質という反応(自分の中の応え)が出るので、だんだん関係がおかしくなってきても、

幸福系脳内物質というご褒美をくれる人という反応の方が強くなっており、幸福系脳内物質の方が多く出てしまいます。

また、期待感を強めることで自分を誤魔化してしまい、幸福系脳内物質の方が多くを出せることが女性にはよくあります。

その為、ダメ男から離れられない状態が長期化します。

また、モラハラ・DVアタックによって出てしまう、不快系脳内物質への依存も悪影響を及ぼします。

不快系脳内物質も脳内麻薬なので依存性があります。

幸福系と不快系の脳内物質を交互に出す頻度が多くなると、性質の違う脳内物質に依存することになります。

ダメ男から離れられない負のループの出来上がりです。

何度も同じことを言いますが、自分を変える・人生を変えるということは、自分の中の応えを変えなければいけません。

自分の中の応えとは、脳内物質の分泌に関する反応プロセスのことです。

人は自分の脳から出ている脳内物質に依存しており、思考も行動も脳内物質に支配されています。

脳内物質の分泌におけるプロセスに異常があれば、不快反応をしてしまいます。

状況・環境が変わり、脳内物質の分泌の仕方を変えないといけない場合があります。

こうしたことを、他人や何かにやってもらえると思っている人は、自分の頭の中に手を突っ込んで脳の回路を繋ぎ変えて下さいと言っているようなものです。

即ち殺して下さいと言っているようなものです。

人や何かに依存した人生、人や何か任せの人生は、自分の中の応え変えることができません。

また、応えを人や何か任せにすることになり、人や何かに命を預けることになります。

それで幸福系脳内物質がドバドバ出て毎日が無条件に幸せならその生き方を続ければ良いでしょう。

でも、そんなことはなかなかありません。

自分で幸せな人生をつくりたい人、自分で生き辛さを解放したい人には、ヒーリングサロン多夢が結果へ導きます。

ヒーリングサロン多夢は、確実に幸せなれる基礎をつくれる場所です。

最後までお読み下さり、ありがとうございます。

皆様の幸せと健康と繁栄を心よりお祈り
ております。

全てを貫く「至高体験」という恐怖

聖書は本当のところ自慰行為について何と語っているのか?
〜聖さの中で生きたいと渇望しているあなたへ〜

デビッド・カイル・フォスター

人はしばしば、聖書はなぜ自慰行為(マスタベーション)について直接的に語っていないのだろうかと不思議に思っています。
自慰行為は、キリストの体の中で沢山の罪悪感と憶測を引き起こしています。ですから私達は、ギャンブルや喫煙…etcといった事柄に対処するのと同様に、自慰行為が罪なのかどうか考えるために聖書の原則を総括し、判断するようにと委ねられているのです。

聖書の原則

私達の主が教えて下さった聖書の原則をもって始めていきましょう。その原則とはこれです。「誰であっても情欲を抱いて女性を見るものは、すでに心の中で姦淫を犯している。」(マタイ5:27-28)。

誰かとセックスをしているシーンを思い浮かべないで自慰行為(マスタベーション)を行う人が仮にいたとしても、それは極まれです。

それを踏まえるなら、自慰行為は姦淫や同性間の性行為、また人間の頭が思いつく他の性行為の数々と同じくらい悪いものであり、もっと言うならばエペソ5:5、コロサイ3:5、エゼキエル23:49で啓示されている通り、偶像崇拝なのです。
ある意味で、自慰行為は一種の思考ポルノと言えるでしょう。
私達は皆、それが罪であることを知っています。

私達はまた、内におられる聖霊様の内なる証によって罪を知ります。

ただし継続的な反逆によってその証を消していなければの話しです(Ⅰテサロニケ5:19、エペソ4:30参照)。
自慰行為をして罪悪感を持たずに生きている人なんていますか?
自慰行為は罪ではないと自分に言い聞かせている人達でさえ罪悪感を持って生きてます。

さらに聖書は、体は聖霊の宮、神聖な宮であり(Ⅰコリント3:16、Ⅱコリント6:16)、キリストご自身の器官(Ⅰコロサイ6:15-20)であると教えています。
「私達の中におられるキリスト」を売春婦と結んではならないと警告されているなら、なぜ私達は主を私達の思いの中の不道徳な考えや画像に結び付けたいと思うのでしょうか?(Ⅰコリント6:15-17)

聖書はまた、性的不道徳は私達の体にたいする罪だと教えています(Ⅰコリント6:18)。
さらに、Ⅰペテロ2:11は、罪深い欲が私達の魂に戦いを挑んでいると語っています。

とういうことは、自慰行為とそれに伴う不道徳な妄想に携わることによって、私達は自分自身にたいして戦いを挑んでいるのです。
そして、この行為の虜になっている人なら誰でも証言できるように、その戦いは地獄のような苦しみです。

最後に、自慰行為が罪なのかどうか私達が探る時に、しばしば見落とされている非常に重要な聖書の原則がⅠコリント6:12、Ⅱペテロ2:19-20とローマ6:14-23にあります。

なんであれ私達を征服するもの(聖霊様以外のすべてのもの)は、私達に害を及ぼすのです。
要するに「人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。」

貞操の原則

(Ⅰペテロ3:2、黙示録14:4、Ⅱコリント11:2、エペソ5:27、ヨブ31:1、Ⅰテサロニケ4:3-4)

教会史を通して、真剣なクリスチャン達は聖書の貞操の原則によって導かれてきました。
貞操とは、精神的であれ肉体的であれ純潔と性的自制の原則に則って、人生を生きるという考えです。
ある意味、自分自身と他者を尊ぶことです。

そしてそれが、結婚という契約のために健全な性表現を取っておくことを可能とするのです。
また貞操は、キリストと教会の結婚を前もって示し、体現するという人間の性行動の麗しさと神様の目的を実行するということです。

恵みの原則

ここでは、子ども達や思春期の子供達が性欲からではなく、単に自分の体の不思議さにたいする純真な興味から、自分の体に触ることについて言及はしていません。
実は、そのような場合に、「何をやってるのよ!」と厳しい態度を取ると、子どもの思考に病的執着と強迫観念をもたらしてしまう可能性があるのです。
さらに悪いことに、その子どもが両親を尊敬していない場合、密かな反抗への道を作りだす可能性があります。
またそのような場合、好奇心や罪悪感が登場してきます。

私達はこの聖書の原則を覚えとく必要があります。

それは神様の恵みと愛が、不敬虔とこの世の欲にたいしてノーと言うようにと私達を教え諭してていることです(テトス2:11-14、ローマ2:4、5:17、Ⅱコリント5:14)。
結局の所、私達を罪の刑罰だけではなく、罪の力からも救ってくださったのは神様の恵みなのです。

この恵みの原則は、止めようと勇敢に試みたにも関わらず、自慰行為をし続けている成人の信者にも有効です。

主がこの事をはっきりと私に語ってくださった時の事を一生忘れることはありません。
自慰行為を止めることができた!と思ったら、やってしまう。
その繰り返しが続いたある晩、私は自分を責めていました。その時、主がはっきりと私の霊に語られました。
「あなたは、わたし以上に、自分に厳しくし過ぎている!」

それが、毎回失敗する度に自分をいじめるのを止め、自由を見出すために新鮮なアプローチを取ることができるよう恵みが働いた瞬間だったのです。
そのアプローチには、自分の失敗に執着するのではなく、むしろ神様との親密さを増していくことに重点を置くことが含まれていました。

逃れの道


改めることができるように、根となっている罪の問題を知ることは重要です(そのような啓示は、神様と親密に過ごしている時に与えられます)。

これらの1つ、あるいはそれ以上の要塞に気づかない、あるいは手放そうとしないなら、当然、私達は束縛されたままです。
なぜなら引き続きサタンが私達の内に領域を持つからです(ヨハネ14:30)。
それゆえ、この変革のプロセスの大半は、サタンの領域がどこにあるのかを見つけ、神様が与えてくださった手段でその領域を取り除いていくことが伴います。
言い換えるなら、的確に原因となっているものを見出し、それを告白する必要があるということです。

それでは、神様の御前で告白する必要がある、根本的な罪の問題とは何なのでしょうか?

1.不信仰:神様が本当に良いお方であることを疑うこと。
罪を犯すと、その瞬間に、神様が本当に自分のそばにいてくださっているのか、つまり自分ことを気にかけてくださっているのかを疑い始め、それゆえに神様が良いお方なのかを疑うようになります。

イブが神様は自分から良いものを遠ざけているのだと信じ込んでしまった時に、エデンの園で犯した最初の罪を私達は再現しているのです。

多くの人は心ではなく、知性で「信じている」だけなので、神様の約束の現れを見逃してしまうのです。
Ⅱペテロ1:3-11、詩篇16:7-8、ローマ8:5-14、ガラテヤ5:16といったみことばを思い巡らし、黙想し、心で信じてください。

実のところ、神様は独身者のためにさえ、自慰行為よりもはるかに素晴らしいものを用意しておられるのです。
神様は、人の性的な一面に満足感と完全さを与える、より次元の高いものを用意しておられます。
この真理を理解することは、罪を捨て去るよう説得されている私達にとって、非常に効果があります。

2.偶像崇拝:エペソ5:3-5とコロサイ3:5は、性的不品行は一種の偶像崇拝であるとはっきり語っています。
いかなる神を崇拝するのと同様、自慰行為には、それ独自の崇拝対象と儀式(決まりきったやり方)があります。ほぼ恍惚状態のような至高体験へと人を誘う、時間、場所、きっかけ、決まった道具、決まったやり方です。
そのような儀式的な偶像崇拝を告白し、それら様々な要素を取り除き、捨て去ることが、その力が打ち砕かれるのを見る秘訣なのです。

さらに、自慰行為はしばしば、特に大きな痛みを通っている人達にとって、命と平安の源となってしまっています。

ある意味では、それが神様の代わりとなってしまっているのです。
聖霊様こそが自由を与えてくださるお方であるべきなのに、多くの人達は、「自分の人生で一番の平安の源となっているもの、自分が壊れてしまわないように保ってくれているもの」無しで生きるようにと求められていることに気がつき、恐怖でひるんでしまうのです。
その習性が彼らの意識にしっかりと染み付いてしまって、それ無しの生活を想像することが不可能になってしまっています。
そうであったとしても彼らは自身のトラウマが癒されることを求める必要があるのです。
それは、神様への信頼を増すうえで不可欠です。

3.反抗心:時に、私達はただ単に、聖霊様の御声に聞き従うことを拒んだり、あるいは聞こえない振りをします。

しばしば自慰行為という自己療法は、私達が必要とした時にそばにいてくださらなかった(と私達が感じているだけですが)神様にたいする怒りと不信感を覆い隠しているのです。

しばしば子供時代に、私達の要求に応じて神様が私達を助け出したり、変えてくださらないと、私達は心の中で神様を裁き、怒りの根を伸ばしていってしまうのです。
これらは告白と悔い改めによって取り除かれる必要があります。
つまり、私達が、自分が反逆していたことを認め、そして神様を愛し、(真実な愛の土台として与えられた)自由意志の必要性を信じるという両方の選択をするなら、神様が完全な愛と高潔さをもって働いてくださるのです。
4.罪を愛すること:これは、しばしば大量の言い訳の下に埋められてしまっています。
「私達は罪を犯す必要がある」、「自分には罪を犯す権利がある」、「これは今、大変な試練を通っている私の事を考慮して神様が最低限許してくださるものだ」と言い張るのです。

しかし実のところ、私達は神様を愛する以上に、自慰行為を愛しているのです。
これを変えるためには、いかにして神様をさらに愛するかを理解する必要があります。

神様にたいするより大きな愛は、神様を深く知るために時間をかけた結果、生じるのです。

礼拝がライフスタイルとなることが重要です。悪魔の領域はそれには耐えることができないのです。

十字架について思い巡らすことも、重要な鍵です。

主の苦しみにたいする感謝が深くなるにつれ、私達はより一層、進んで「私達を最も魅了してきたもの(ある聖歌の歌詞)」を投げ捨てるようになります。
誘惑された時は、自分にただこう尋ねればいいのです
「今、私は誰を愛しているのだろうか?
今、自分を誘惑しているこの罪だろうか?
それとも、私のために十字架で死なれる程私を深く愛してくださったお方だろうか?」
そうするなら、選択がより一層簡単になっていきます。

5.自己欺瞞(自分を欺くこと):長い年月の間に、私達は自分自身を欺き、本当は手放すつもりが全くないものから自分は自由になりたいんだと信じ込ませる名人となってしまっていたことに気がつくのは屈辱的です。

心の中に居座っている罪を捨て去ることを拒んでいるのに、敬虔な事を語り、敬虔な事を考える。
そのようにして私達は、玉葱のように、自己欺瞞という皮で自分を覆ってしまっているのです。

私達は神様の御前で今も変わらずある不純な動機、心にある邪悪さ、そして神様から「聖くなりたい」という真心からの願いを与えてもらう必要がある事を認めなければなりません。
ユダ24節、詩篇37:23-24、詩篇55:22で語られているように、私達が心から神様に願っている限り、私達をつまずきから守ってくださるのは神様ご自身なのです。

6.自分の力で正しくなろうとすること:私達の多くが、分別のある人達でさえ、絶えずこの罠に落ちてしまっています。

「恵みのみ」、「キリストなしでは何もすることができない」(ヨハネ15:5参照)と口では語りながらも、私達の堕落した性質はひっきりなしに私達の思いを誘惑して、「神様の愛を勝ち取らなければならない。神様に受け入れられるためには、もっと正しく生きなければ」と信じさせようとするのです。

幾度も、私達は肉欲の恥を苦しめ、主が私達のために十字架で勝ち得てくださった御国の人生を生きる事ができるように神様に完全に頼りきる代わりに、自分の力で聖くなろうとするのです。

自慰行為や様々な罪のとりことなる背後には、ここで全てをリストするのは不可能な程多くの考えられる要塞があります。
だからこそ、神様との親密な関係と神様からの啓示を追い求め、主が語られることを行う事が、本当のところ逃れの道なのです。
そうするなら後は、神様が聖霊様のささやきと力によって、あなたを真の解放へと導いてくださいます。

デイビッド・カイル・フォスター博士(トリニティ―神学校にて神学修士号と神学博士号を修得)
Transformed Into His Image とLove Hungerの著者。Pure Passion Mediaの創設者兼監督。

Reprinted with permission from Charisma. 
Copyright Charisma Media, USA. All rights reserved.

至高体験はもっと評価されるべき

新しい年、2019年が始まりました。

本年もブログ「自分教ガイド」をよろしくお願いいたします。

昨年はやや更新不足だったこのブログですが、今年は初心に戻って積極的に更新していくつもりです。また内容の方もヌーソロジーを中心としつつ、そこに自分教ガイド・とうしん独自の観点から、読者の皆さんがそれぞれの「自分教」を確立できるように、より実践的なものを多く発信していきたいと思います。

さて新年最初のテーマは、『善悪観念からの卒業』です。私自身はクリスチャン出身ということもあって、特定の宗教観念とか、特定の信仰団体や信念体系に囚われた経験があり、そのことによる功罪をいやというほど体感してきました。

本日の記事は、主に宗教がらみの苦い経験を引きずっている人向けです。しかし宗教とは無縁の生活をして来た方であっても、何らかの信念に囚われたことはあるでしょうから、それぞれの立場にあてはめて読んでみて下さい。

先週にほぼ書き上げた記事ですが、かなり長くなりましたので、これから3回に分けてアップしたいと思います。

それでは早速始めましょう。

『善悪観念からの卒業』全3回シリーズ
第1回テーマ:神と悪魔は表裏一体

シリーズ第1回目は、『神と悪魔は表裏一体』というお話をしたいと思います。

いきなりこんな事を言っても拒絶か無視されることは分かっています。神を信仰してきた宗教経験者にとって、信仰生活での尊い経験や美しい記憶、信じていた教祖や教団仲間達への思い入れなどが複雑に絡む問題ですから、ことはそう単純ではないでしょう。それゆえ、まずは事実関係からクールにせめてみたいと思います。

●大病院を支えているのはガン患者

大病院を支えているのはガン患者・・・例えば抗がん剤の価格はピンからキリまでありますが、昨年ノーベル賞で有名になった「オプシーボ」は100mgで73万円、1gなら730万円です。もちろん患者には自己負担3割に高額療養費などで支出は抑えられますが、公的保険から支払われる費用で病院と製薬会社は儲かります。人工透析患者一人あたり年間500万円の売上げを病院にもたらすそうです。日本の医療費は2015年度で約42兆3644億円。40兆を超える医療費を病院関連で分け合っています。

病気やケガなどが病院を支えている。これはそのまま精神世界、とくに宗教団体というシステムにも言えることではないでしょうか。

宗教で言えば、悩み苦しみ、様々な問題や葛藤が宗教を支えています。宗教に一番利益をもたらし、宗教を根底で支えているのは、人間に苦しみを与える存在、つまり悪魔なのです。これは事実です。このことは冷静になって向き合う必要があると思います。

悪魔が宗教を支えている。悪魔がいなければ宗教は成立できない。救い主も教団組織も、全ては悪魔との協働によって維持されています。「聖なるもの」を求める欲望が実はどれほど「汚れているもの」なのか、一度そのことを冷静に見つめる必要があります。

●歴史的事実をみても・・・宗教が見せる排他性と熾烈な争い

宗教は多くの血を流してきました。それも殉教の血という美しいものだけではありません。征服・殺戮の血をたくさん流してきたのです。例えばキリスト教では中世・十字軍によるエルサレムでの殺戮。ユダヤ人・アラブ人という理由だけで一般市民・女性子供ら数十万人を虐殺し、十字軍の兵士は返り血を浴びたまま神に歓喜の祈りを捧げました。そしてアフリカ大陸の征服と搾取、南北アメリカ大陸に渡っての原住民の虐殺と搾取にも宗教がからんでいます。

日本においても豊臣秀吉によるキリスト教禁止の理由の1つに、ポルトガル宣教師による日本人奴隷の輸出がありました。いろんな説が入り乱れていますが、数十万人が奴隷として売られていったという文献もあります。いまでもポルトガルやスペインには日本人の血を受け継ぐ人が沢山います。とにかく当時の西欧支配者の精神性にキリスト教的価値観から来る優越感と差別があったことは間違いありません。有色人種や土俗宗教をとことん野蛮なものとして見下していたのです。

宗教は権力、排他性・独善性、人種差別など数々の問題をもたらします。それはキリスト教など一神教にだけ見られるものではなく、仏教の歴史にも見られます。これは何故でしょうか。

●宗教は善悪観念を持つ

過去宗教が残した多くの課題を解決するべく、現代に入り新しい宗教が多数登場しました。いわゆる新興宗教の数々。しかしながら、それら新興宗教が人類の課題を解決したとは到底思えません。むしろ新たに多くの問題と混乱を巻き起こしています。信じて裏切られた人も多いでしょう。信じ切れなかった挫折感を引きずる問題もあります。いずれにせよ、幸福を実現するはずの宗教が、不幸と悲劇を産み出しているという事実・・・これは経験者には分かる、と思います。

なぜそのような事になってしまうのでしょうか。本日のテーマである「神と悪魔は表裏一体」とは、その理由を端的な言葉で言い表しています。

宗教は、かならず善悪観念を持っています。そこには悪魔の存在が出てきます。その悪魔との関係において原罪や堕落、そして救済の概念があります。これはキリスト教系でなくても、大抵の宗教においては、善悪の分離闘争、つまり「善の主体である神」と「悪の主体である悪魔」というような二元闘争物語があるのです。善悪二神と言えば古代宗教であるゾロアスター教が有名ですが、古代ゾロアスター教から今日に至るまで、この二元闘争物語は続いているのです。

ところで本来の神とは、悪を認めないほどの絶対性があるのではないでしょうか。なぜなら本来の神は「絶対善」だからです。信仰者ならこの事に異論は無いはず。神学的にもこれは正しい解釈です。絶対善である神が対象とするものはすべて善となります。それ故、悪とは神の対象にならない存在なのです。分かりすく言うと、本来の神は悪を完全に無視するはずです。

これが神を信仰する宗教に入ると、必ずや善悪闘争物語の中に巻き込まれます。神の意図に反して悪魔が大活躍するのです。その理由は「罪観」にあります。

これまた多くの宗教に共通ですが、それは「悪の責任が人間にある」という何らかの罪観があるのです。これによって人間にとんでもない重責が押しつけられます。人間はここから善悪分離の
性的分裂症という不治の病にかかり、宗教という病院から一生、さらには死後の世界までも逃れられない状態に落とされるのです。

この状況は、先にあげた病気と病院の関係に似ています。病院は病気を治したい。でも病気が病院を支える。医者と患者の関係。病院を支えているのは患者。何か同じ構造があると思いませんか。

(※誤解しないで頂きたいのですが、生命の現場・限界状況の中で日々格闘されている医療関係者をディスるつもりは全くありません。それどころか、私は医療関係者に対しては最大級のリスペクトを持っています。ただただ、頭が下がる思いです。私がここで問題にしたいのは「構造」です。人間が持っている限界構造。この閉塞状況を突破したいという意図だけなのです。)

病院が病気を必要とするように、宗教には「罪」が必要なのです。罪がなければ宗教は成り立ちません。しかしながら、神とは本来、罪とは全く関係がありません。つまり、罪を扱う場所と神を扱う場所が同じにはならないのです。これは困った。そこで「罪の主体」であるもう1つの神、つまり悪魔が必要になるのです。これが宗教の構造です。

まとめると、何らかの神を信仰する宗教は、実際には悪魔の存在を同時に必要とし、神と悪魔の二神論となって、人間を善悪の分離・葛藤状態に閉じ込める。二元論状態です。そして善悪分離というのは、実際には霊と肉の分離、心身の分離を引き起こします。理想と現実の葛藤状態です。この二元論闘争状態が、宗教の統治にとって根本的に必要なものとなります。

このような善悪二元闘争を必要とする精神を私は「一神教精神」と呼んでいます。一神教ではない、むしろ多神教であるという宗教があったとしても、そこに「善悪観念」がある以上は「一神教精神」の範疇にあるのです。そうではないでしょうか。

●新しい元号スタート、いよいよ自身の善悪闘争を終わらせよう

宗教は必ず善悪観念をもつ。神を信仰するということは、その裏に悪魔の存在を必要とする。そんな神を信仰する人間は、神と悪魔の善悪二神によって心身分離し、慢性的葛藤状態に陥る。このような善悪二神闘争をもたらす精神が「一神教精神」。その意味で、いかなる宗教も一神教精神の範疇にあると言える。

一神教精神は「善悪二神」という振り子を作り出すのです。本日のテーマである「神と悪魔は表裏一体」というのは、この振り子としての「善悪二神」のことです。

「神様が実は悪魔と同じだった」などと言われたら、信仰心のある人が反発するのは当たり前です。でもそれは振り子としての「善悪二神」のことであって、心の美しい皆さんが、愛し、信じ、求めて来た「本来の神様」のことではありません。そのような神様は皆さんの心の投影なのです。皆さんの美しい心が、それを表現しているのです。その神様は皆さんの心の中にいるのです。

皆さんの心の中にある「神様」の登場を阻んでいるのが、外側から圧力をかけてくる一神教精神なのです。本来は、神(カミ)+我(ガ)=鏡(カガミ)として、「完全なる鏡認識」のもとに神人合一があるということを以前にお伝えしました。一神教精神はその鏡を割って「主体vs客体」の対象認識をもたらし、神と我を分離し、外側に神を祀らせようとします。それを元に戻し、鏡認識を取り戻す必要があります。

鏡認識に至れば、原罪論などもおかしな話であるということが分かるのです。罪を語るものは、罪自身なのです。いわゆる「魔釣り」ですね。正神をたてまつる「祀り」に対して、魔を引き釣り出す「魔釣り」。「まつり」には2種類ある、というのが日月神示関連でよく言われます。

「悪魔」や「罪」というものは、人の心にある魔を釣り上げる為の概念。清水で油汚れを落とせないように、油には油と同じものをあてなければなりません。それと同じ。鬼をみるものは鬼であり、仏をみるものは仏であると。ここに最後の「一厘の秘密」が関係しています。

そして神人合一する鏡認識においては、神と私は「一対一の関係」となります。この関係こそが真の一神教であり、偶像崇拝という「幅認識」を避ける、純粋な「奥行き認識」の一神教である、と私は本に書きました。そして、それぞれが神人合一して「自分自神」なのですから、多神教でもあります。「一神教即多神教」の世界、それが「和多志」の世界です。これがスピリチュアルで言われるムーの記憶であり、縄文、古代日本精神です。

「和多志」とは「私」の古語。この語の中に古代日本精神、日本語の精神がよく現れています。

ところで今年は新天皇による新元号スタートの重要な節目。前回の昭和から平成への移行時には「東西冷戦の終結」がありました。それでいくと、今回の移行時には「南北冷戦の終結」があると予想されます。それは朝鮮半島の南北統一かも知れません。(※現在、北主導の統一になる可能性がまことしやかに囁かれていますね) 

しかし、そのような外側のことよりも、私たちは自身の内側の南北冷戦を終結しなければなりません。すなわち、本日一貫して語ってきている「神と悪魔による茶番の善悪闘争」を各自がそろそろ終わらせる時が来たのです。

●最後に・・・私たちが行くのは第4番目の道である

最後にシュタイナーの霊智をかりて、神や悪魔の問題をとうしん流にまとめてみます。

まず3つの道があります。

1.唯物論の道
すべて物質、神や霊など存在しないという立場。悪としては「アーリマン」。

2.二元論の道
霊と物質の分離、二元。終わりなき二元闘争におかれる立場。悪としては「一神教精神・ヤハウェ」。

3.唯心論の道
すべて霊、物質など存在しないという立場。悪としては「ルシファー」。

シュタイナー思想では、悪魔は2種類いるのですね。それがアーリマンとルシファー。以下に説明していきますが、ここにはヌーソロジー的な「四値論理」の構造を感じます。一者的価値観による振り子的二元論(プラス・マイナス)が人間を慢性的葛藤状態に閉じ込めます。そこを突破するのが四値論理。これは意識進化した変換人の論理である、というの
がヌーソロジーのキモですね。ちなみにこの四値論理とは、道教の陰陽太極図が表しているものと同じです。

さてそれで、人間は2番目の二元論の世界に叩き込まれています。ここで善悪闘争にあけくれ、慢性的な心身分離に陥ります。「二元論=人間論」という感じです。そして上で述べてきましたが、この二元闘争を作り出しているのが、神と悪魔であり、その大本の一神教精神、偶像と化したヤハウェ(本来の「YHWH」ではないという意味)。

そこで1番目が出てきます。宗教の欺瞞に気づき脱出しようという1つの試みです。それが唯物論。科学者達の多くがこの方向性を追求しています。しかしこれは言わずもがな、直観的なオカシさがあります。魂や死後の世界を否定する立場で、私たちの素朴な直観には反しています。この領域を支配する悪の力を、シュタイナーは「アーリマン」と呼びました。これはゾロアスター教の悪神「アンラ・マンユ」のことです。日本語表記が違うだけで、同じ意味。唯物論の暴走を主導する精神がアーリマンです。

そして3番目。純粋なる霊の世界、精神一元を求めようとする態度です。仏教の唯識などがそうですし、最近では現代スピリチュアルの根底にある「奇跡の学習コース」や、無我の現代的表現である「ノンデュアリティ」などもそう。奇跡のコースは、純然たる神一元論で、「神の霊」だけ、ということを宣言します。悪魔も物質も認めません。それらは全て「錯覚」という判断です。これは本来の一神教のカタチだと言えます。それで実践論としてはただひたすらの「許し」を主張します。

一元論ですから、主客一致の認識であり、かつ他者も認めません。なので、すべては自分の投影。他人に見える「怒り」は自分の「怒り」の投影であるとし、どこまでもただひたすら自己の内側の許しを追求していきます。これは先ほど説明した「鏡認識」ですね。

ちなみに私は「奇跡のコース」の方向性を大変評価しています。この道は「責任転嫁」を一切せず、すべてを自分の責任、自分だけの責任として引き受けていく道です。完全な鏡認識の道、「ホ・オポノポノ」と同じですね。

それが「ノンデュアリティ」までいくと、「自分がない」のですからそもそも「責任もない」という「完全解放」に向かいます。なるほど、その破壊力には目を見張るものがあります。しかし、不真面目な人に悪用されてしまうのでは? と心配になります。え、その心配する自分もないから関係ないって? はいはい、ノンデュアリティだからそうですよね。

ともかく、「純粋な一元」を求める立場が「奇跡のコース」や「ノンデュアリティ」であるということです。

しかしながら、シュタイナー~ヌーソロジー~自分教の見地から言えば、この立場にも問題が残ります。この立場に立つと、知らず「物質軽視」に陥ります。長い目でみれば、この方向性を採用してしまうと文明が停滞します。これはインドやチベットなど、東洋文明に停滞をもたらした原因でもあります。

シュタイナーが凄いのは、この領域を「ルシファー」的誘惑としていることです。シュタイナー思想で出てくる2つの悪魔的存在、アーリマンとルシファー。その内の1つです。これら悪魔は人間に干渉して、人間の霊性の健全な成長を阻害するというのです。ここにおいて、人間は自らの責任において、アーリマン的なものだけでなく、ルシファー的なものの誘惑をも避けながら成長していかなければならない、と説かれているのです。悪魔には2種類あるということですね。

ルシファー的悪を分かり易く言えば、酒に酔っ払ったような精神的快楽を求める悪のことです。厭世的な態度です。シュタイナーが神智学のブラバッキー夫人と袂を分かった理由の1つがここにあります。ブラバッキー夫人らが、古代エジプトの夢見心地な霊的体験を重視する方向にメンバーを指導していくので、シュタイナーはそれに反発し、神智学協会を脱会して人智学協会を設立したという経緯があったようです。霊性をもとめて、スピ的な楽しさばかり求めるのもルシファー的誘惑だと言えます。瞑想に伴う至高体験に固執する態度も例外ではありません。

またルシファー的悪には独特の排他性があります。この世界に耽溺するようになると、もう他人の言うことを一切聞かなくなるという傾向が顕著に見られます。瞑想に向かう方向性には他者がいないのですから、仕方がありません。

※『シュタイナー思想とヌーソロジー』・・・これは不朽の名著になると思います(統心)

●第4の道、「真の二元論」へ

当然ながら、ヌーソロジー~自分教がいく道は、これら3つの中にはありません。第4番目の道です。それを敢えて言うなら、

4.『真の二元論の道』

です。真の二元論、双子の精神であり、自己他者・双対性宇宙論のことでもあります。

宇宙の根源は真の二元性である、これがヌーソロジー~自分教の結論です。この真の二元性を採用することによって、善悪闘争は終わってしまいます。闘争するのは一元主義なのです。真の二元とはお互いの差を認めることであり、闘争自体が錯覚であったということが自然に分かるようになります。

次回以降の考察になりますが、真の二元論によって、悪の発生と存在理由もすべて説明されます。一神教精神のように矛盾を隠した偽りを演じる必要はありません。全てがそのまんま、あるがままの世界になります。

また、このあるがままの道は、神道家が大切にしてきた「かんながらの道」のことでもあります。それゆえ、この第4番目の道とは古神道、それもさらに遡る上古代の精神、カタカムナとかホツマツタヱの世界に通じるものがあると思います。

ちなみに私はこの第4番目の道を「スピリチュアル4.0」と呼んでいます。スピ0が唯物論、スピ1.0が精神論、スピ2.0が独我論、スピ3.0が無我論と来てからのスピ4.0です。それは「モノ自体」の世界、「物活論」となるでしょう。そこに「真の二元性」の世界があります。

この「真の二元性」をもたらすためには、まずは頑なな「一神教精神」を解体しなくてはなりません。実は上であげた第1の道「唯物論」も、第3の道「唯心論」も、ともに「一神教精神」に回収されているのです。上の3つ道は、すべて一神教精神の範疇なのです。

お疲れ様でした。第1回目はここまです。このあと今月中に

第2回テーマ

『物質世界の目的は「霊の個体化」にある』

第3回テーマ(最終回)

『「失敗概念の解体」による「善悪観念からの卒業」』

を順にアップする予定です。お楽しみに。

昨年12月の大阪教室では、今回の話につながるような、かなり集大成的なことを語りました。以下にDVDを紹介しています。12月度大阪教室DVDは、いつも愛聴して下さる皆さんだけでなく、始めての方にもお勧めできる内容となっています。

本年もまた、毎月の関西での勉強会とDVD発信をベースに、本日お話した「真の二元論」の実践について、深く探求し、皆さんと分かち合って行きたいと思います。皆さんとの双方向の刺激で、この実践論もどんどん進化していくことができます。

本年も何とぞよろしくお願いいたします。

2019年1月

自分教ガイド・とうしん 拝

【連絡事項①】
●2018年12月度大阪ヌーソロジー教室の動画DVD、できました!

12月テーマ:『一神教精神のあとにに来るもの』
「一神教精神」という「エクスカリバー」を引き抜け!

昨年12月8日に福岡で行いました講演をベースに

講演では掘り下げて語ることのできなかったポイントを

関西ヌース教室ならではの、臨場感とユーモアを交えて詳しく見ていきたいと思います。

初心者にもお勧めの内容です。

動画の冒頭部分をYouTubeにアップしています。

お申し込みは以下のページからどうぞ。

【連絡事項②】
●2019年1月度ヌーソロジー教室やります(京都・大阪)

1月テーマ:2019年の展望

年初は恒例、その年の展望をヌーソロジー的視点を交えながら見ていく回です。

特に今年は平成最後、重要な節目の年です。何が飛び出すことやら。

1年の始め、初詣感覚でお越し下さい(笑)

★1/22(火) 京都ヌース教室
場所:ウィングス京都 会議室11
午後6時半~9時

★1/26(土) 大阪ヌース教室
場所:江之子島文化芸術創造センター Room8
午後1時半~5時


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