色んなショップの至高体験をリサーチ!

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絶対失敗しない至高体験選びのコツ

久しぶりにブログを更新します。

前回は五井先生の「消えてゆく姿」の教えの説明として西式甲田療法の「症状療法」について書きました。その冒頭に書いたように五井先生の教えには「世界平和の祈り」「消えてゆく姿」「守護の神霊への感謝」の3つ柱があります。

そして世界平和の祈りは守護の神霊への感謝で締めくくられています。

世界人類が平和でありますように

日本(にっぽん)が平和でありますように

私達の天命が全うされますように(わたくしたちのてんめいがまっとうされますように)

守護霊様 ありがとうございます

守護神様 ありがとうございます

また五井先生が定められた教義「人間と真実の生き方」の冒頭にも「神霊による守護」が示され、締めくくりには守護の神霊への感謝が世界平和の祈りと共に真の救いの要諦であることを述べられています。

『人間は本来、神の分霊(わけみたま)であって、業生(ごうしょう)ではなく、つねに守護霊、守護神(しゅごじん)によって守られているものである。この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世(かこせ)から現在にいたる誤てる想念が、その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあっても、自分を赦(ゆる)し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真(しん)の救いを体得出来るものである。』

このように神霊の存在を認め、その守護を信ずること、さらに神霊への感謝の重要性を五井先生は繰り返し、述べられていますが、各人を守る神霊について、具体的にこうもおっしゃっています。

一人の人間がここに生きている時には、働いている人間の魂が一つではなくて、うしろに守護神さんが一体、守護霊さんが三体(主守護霊と副守護霊二体)四体の神霊が必ず守っていらっしゃるのです。少なくともネ。それでいろんな人のために尽くしている人や、大きな仕事をしていれば、たくさんの神様が付いて守っていらっしやるのです。自分を絶対守ってくださる方は四体必ずあるのです。

私は若いころからこのような神仏の存在をそれとはなく信じていました。そして五井先生の教えに出会ってからはその存在を身近に感ずるようになりました。

そしてそれが確信へと深まったのには、いくつかの体験がありました。

既にこのブログでは断片的に、それらを紹介してきましたが、今日はそれらをまとめて整理し、合わせて五井先生が守護の神霊の重要な働きについてのべられた言葉を紹介したいと思います。

まず最初は私自身の体験、山本印店との出会いについてです。

山本印店の桃仙(とうせん)先生からおしえられたこと

山本印店は東京、世田谷(せたがや)の知る人ぞ知る、「開運印」で有名なはんこ屋さんです。

山本印店の名前は信頼している人から聞きました。彼からはんこをつくることを薦められていたのですが、当初は開運印などには興味がなく、スルーしていました。しかし仕事上のストレスが高じるようになり、改めて薦められたこともあって、訪問してみる気になりました。

と言っても山本印店は予約を取らねばならず、その予約がなかなか取れないので有名です。しかし運よく予約を取ることが出来、店主の山本桃仙先生からアドバイスを頂く機会を得ました。以来、すっかり先生のファンになり、人生の節目節目で(はんこを作りに行き)アドバイスを頂くようになりました。それは2度目の訪問の折の事です。

現在の私の仕事は経営コンサルタントで、経営、業績改善のアドバイスを生業にしていますが、当時は世間で割に名が知られている会社の役員をしていました。

私はその会社の社長の右腕とか懐刀と周りから言われ、自分もその自負を持って仕事に取り組んできたのですが、徐々に社内で孤立感を感じるようになっていました。

新卒で入試した会社なのですが、社風になじめず、社長との間にもいつしか隙間風が吹くようになり、ついに頼みの社長から役員の退任と子会社社長への就任を言い渡されるに至ります。これはいわば左遷、降格に等しく、それまでサラリーマンとして順調な人生にあった私は失意の底に沈みました。山本印店を再訪したのはその時のことです。新たに設立する子会社の社印を作成する為の訪問でした。

桃仙先生に早速、「社印を作ってほしい」とお願いしたのですが、詳しい話を聞かず、社名のメモを見ただけで言下に「作る必要がない」と言われました。

理由は「この会社は貴方の会社でない、自由に出来ない、だから作っても仕方がない」でした。社長とはいえ自分の会社でないのは事実、その通りです。ちなみにその後しばらくして、本当の自分の会社のはんこを作りに伺った折には、屋号にまでアドバイスを下さり、すぐに作ってくださいましたから、その眼力はホンモノです。

「作っても仕方がない」という言葉を聞いて一層、暗澹(あんたん)たる気持ちになった私の様子を察した先生は詳しい事情を聞いてくださりました。そこで私は問われるままに、会社の事、社長とのことなどを話しました。私は自分の人生が悪い方へ悪い方へと向かっているように感じており、その気持ちは先生にも通じたと思います。私の話を聞かれた先生はこのようなアドバイスを下さりました。

母方のご先祖様が守護霊

その折の先生の言葉です。

「あなたは悪い方へ悪い方へ向かっていると感じているようだけれど、まったく逆。あなたは良い方へ、良い方へ向かっているんだよ。あなたのご先祖様、母方のご先祖様は大変立派な方で、この方があなたを守っている。全然心配することなどない。ところでお墓参りはちゃんとしているかい?(私「母方のお墓はどこにあるかしれません」) ダメじゃない。ちゃんとお参りしないと。」

更にこうおっしゃいます。

「あなたが会社で孤立するのは仕方がない。あなたは大久保彦左衛門*のような人だ。唯一人正しい事を
っている人だから煙たがられ、孤立する。そしてその孤立感や思うようにならない焦燥感が高ずると病気になってしまう。だからあなたを守護しているご先祖様がそうならないように、あなたを安全な方に安全な方に連れて行って下さっているんだよ。」
(注*大久保彦在衛門=徳川幕府、草創期の旗本、頑固一徹な気性で、それを見込んだ家康が三代将軍家光の意見番=耳に痛いことをいう役割、のお墨付きを与えたとの伝承がある)

おそらく、あまりに私がしょげていたからでしょう。更にアドバイスが続きました。

「今は判らないだろうけれど、2年もしないうちに判るようになる。あなたの会社は2年以内に外資との間に大きなトラブル、事件が起こる。その時、もしあなたが役員でいたら、その累(るい)はあなたにも及ぶ。そうならないようにあなたを安全な所へ連れて行って下さっているんだ。この会社(子会社)は何の会社だい?(私「教育やコンサルティングの会社です」) へぇーそれはあなたの天職だよ。あなたはそのために生まれてきたようなものだ。会社はよくあなたのこと見てるよ。だから心配無用。」

概略以上のようなやり取りがあり、はんこを作ってもらえなかった私はがっかりして山本印店を後にしました。そして一年半後の事です。

天職と言われた仕事です。子会社の社長として、意欲をもって取り組んでいましたが、桃仙先生が予言された通りの事件が起こりました。それが原因で私が仕えた2代目社長が辞めることになり、これには正直驚きました。

桃仙先生からはその後、本当の自分の会社のはんこをつくる際に、クライアントであった数社の名前を上げて、どのように付き合えば良いか、質問した時はこのようなアドバイスも頂きました。

「あなたは頼まれたことだけをやっておればよい。あなたから離れていく会社やあなたが見放した会社はダメになるから。」

先の天職というアドバイスと共にこれも大きな自信になりました。

この時の顛末は以下のブログに詳しく書きましたので、興味のある方は読んでみてください。

体験談②守護の神霊の存在を確信した山本印店との出会い

体験談③守護の神霊の働き、「人間万事塞翁が馬」とその後のこと

前述のように、守護の神霊の存在を理解していたつもりでしたが、この体験を通じて、理解は確信へと深まりました。そして桃仙先生のアドバイス通りに母方の墓所へのお墓参りは私の習慣にもなりました。

2つの神秘体験

守護の神霊への確信が深まった別の体験もあらためて紹介します。

まだ私が先の会社の役員だったころの話です。前述のように仕事上の人間関係や責任などから私は少なくないストレスを抱えていました。

当時すでに世界平和の祈りに出会っており、それは大きな力にはなっていましたが、負けまいとする気持ちと孤立感や焦燥感から負けそうになる弱い心の格闘から抜け出せない状態にありました。

そんなある日、白光真宏会の富士聖地の「七つの場の行事」に参加しました。

七つの場の行事はそのころ始まったばかり、初めての参加でした。

参加といっても個人で行う行(ぎょう)で、富士聖地にある片道2-3分の遊歩道に設けられた七つの場で短時間に行います。

七つの場 

七つの場とは以下の七つの場所です。

1. 消えてゆく姿の場

2. 自己否定などの想いを消す場

3. 願望成就の場

4. 光明思想徹底行の場

5. 地球世界感謝行の場

6. 我即神也の場

7. 人類即神也の場

下写真が七つの場への入り口です。

行(ぎょう)と言っても30分もかからないで終えることが出来る簡単なものです。

例えば1の「消えていく姿の場」では自身の心に去来する良くない思い、雑念、妄念、病気や不幸の類をメモ用紙に書いて、世界平和の祈りをしながら炉にくべ、それを燃やします。

その日、私は一番目、二番目を済ませ、三番目の願望実現の場へと進みました。

願望実現の場でもメモ用紙に名前と自分の願望を一つだけ書いて、それが実現する日付を書き、それを封印、所定の場所に安置します。実現したい自分の願望を改めて考えてみましたが、当時は特に物理的な願望はなく、前述の不安動揺にする自分の心に手を焼いていましたので、メモ用紙には「安心立命の境地に立たせてください」とだけ書き、所定の場所に置いて、残りの行を済ませ帰宅しました。

正直言うと、「安心立命の境地」などという抽象的なお願いが短期間にかなうなどとも思いませんでしたから、そのことはすぐ忘れてしまっていました。

49日目の至高体験

それから一月少し経ったころ、当時、白光真宏会の本部があった市川市の聖ヶ丘道場の練成会に参加していました。練成会とは聖ヶ丘道場で当時定期的に行われていた世界平和の祈り(統一)を中心にした行事です。

その日の何回目かの統一を行っていた時のことです。目は閉じたままでしたが、ハッキリした意識があります。突然球体の中心に座っている自分を感じました。手を伸ばしたわけではないのですが、手で触れたような球の感触を実際に感じました。さらに私を包むようなその球体を意識したとたん、私の意識が自分の胸の中心に向かって収縮していく感覚を感じました。どんどん私の中心に意識が向かいます。そしてそれが一点に収縮、行きついた先に「安心立命の境地」がありました。

何とも言えない幸福感、何とも言いようのない安心感、そして何とも言いようのない快感がそこにあります。「至高体験」と言っても良いものでした。そして私は求めていた究極の安心立命が自分自身の中にある事をハッキリ認識しました。そう思ったとたん私の耳に五井先生の霊笛と柏手が聞こえ、練成会の統一修行の場に戻っていました。

最初は何が起こったのかよく判りませんでしたが、よく考えると七つの場での私の願望が聞き届けられ、守護の神霊の導きで、私がいつか行くことが出来る「安心立命の場」に私の意識を連れていって頂いたのだ、ということが判りました。

その後、大ベストセラーになった「神との対話」を読んでいる時に、天国だったか、神様のいらっしゃる境地だったかを問う質問に対して、「永遠に続くエクスタシー」と答えているのを読んで、「それだ!」と思ったことがありますが、それは明瞭な意識体験でした。

これには後日談があります。七つの場の行事の日から、この体験の日がピッタリ49日目であったことに、後日気がつきました。7は神様に縁がある数字で、7×7=49も意味のある数字です。私にはとても自力であのような境地へ行けたとは思えませんから、49日目に気がついたとき、「お前はね、ここまで来れるんだよ」「心配いらないんだよ」と私を守護して下さる守護霊、守護神が教えて下さったのだ、と改めて確信できました。以降、更に守護の神霊の働きへの感謝の念が深まったのは言うまでもありません。

ただ、この体験があったからといって、それが何か特別なことだとは今では思ってはいません。また自分が特別だとも思っていません。

誰にも霊性、神性があり、そして守護の神霊がついていらっしゃいます。私は幸い世界平和の祈りや七つの場を機縁にして、霊性、神性に触れる機会を得ることが出来たというだけです。

そういう体験をしましたが、その後も不安動揺の心が出て来ましたし、常時、安心立命の境地にいるわけでもありませんでした。

しかし、この体験は目には見えない守護の神霊の実在を明瞭に認識する良い機会になりました。

だから、誰がなんといようが、神様はいらっしゃいますし、より身近には先祖や縁のある悟った方が神霊となって四六時中守ってくださっていると確信をもって言えるようにもなりました。

過去のブログではこの体験と共にもう一つの体験を紹介しています。それが「妖怪との遭遇」です。

妖怪との遭遇

これも上の体験の前後にあったことです。ある日、仕事で京都に行くことがあり、定宿にしていた「河原町三条上る」にある老舗ホテルに投宿しました。その夜は得意先の接待。京風の町屋で中華料理屋をご馳走になりましたが、紹興酒が進み、9時過ぎにはすっかり酔ってしまいました。二次会の誘いを断り、呼んでもらったタクシーでホテルに戻り、ようやく部屋にたどりついた私はジャケットも脱がずにベッドに倒れ込んでしまいました。

その日はツインのシングルユースで、奥のベッドに倒れ込みましたが、真夜中過ぎ、寝苦しさに目を覚まし、ジャケットとズボンを脱ぎ、再びベッドに横になりました。その後すぐの事でした。私の後方のもう一つのベッドあたりで「クシャクシャ」と新聞紙を丸めるような音がしました。

すぐ側で聞こえたので、慌てて振り返りましたが、何もありません。外の廊下を誰かが通ったのか、と思い直し、もう一度同じ姿勢で横になった途端の事です。横向きに寝ている私のベッド側の右半身に、それこそ10本くらいの手で触られる感触をハッキリと感じました。それが、あまりに明瞭な感覚だったので、飛び起きました。

直前の新聞紙を丸めるような音、それに続くこれです。私はこの部屋に問題があると思いました。よく耳にする幽霊の出る部屋に違いない、と思いましたが、さほど幽霊を怖いとも思いませんので、「まぁー仕方ないな」と、「もう出るなよ」程度の事を思いながら、再びベッドに横になりました。

その途端、同じことがもう一度起こりました。10本程度の手のようなものでベッドの中から触られたのです。

「これはもう寝てられないな」と思い、仕方がないので持参のパソコンを立ち上げて、前日出来なかったメールのチェックや仕事上の連絡などを始めました。そのうちに空が白みだし、鳥の鳴き声が聞こえるようになりました。

「もう大丈夫だろう」ともう一寝入りしようとした時に、そのホテルに連泊の予定だったことを思い出しました。さすがにこの部屋に連泊は出来ません。結局、ネットで別のホテルを取り、二泊目はキャンセルしました。

チェックアウト時、クレームの一つも言おうとも思いましたが、大人げないとも思い、キャンセルの理由を「予定が変更になった」としてホテルを出ました。

私は霊感、霊媒体質ではありませんので、それまでも、それ以降もこのような体験をしたことはありませんから、不思議には思いましたが、しばらくそのことは忘れていました。

このことを改めて思い出したのは、先に山本印店を紹介してくれた彼と仕事の打ち合わせをしている時でした。

彼は五井先生にもご縁のある方で、優れた霊覚を持っている人です。優れたというのは、彼の霊覚の確かさはそれまでの付き合いで何度も経験していたからです。

幽霊でなく妖怪?

彼との打ち合わせ中、このホテルでの体験を思い出し、初の幽霊体験として話をしました。

彼は首をかしげ、「それは幽霊じゃなく、一番近い表現で言えば妖怪ですよ。」と言います。

「それは何です? また、なぜそんなのが出たんです?」と重ねて尋ねる私に「マクラガエシって判りますか?そういった類です。」と言い、更に、「不思議なのはなぜそこに来たのかですね。横井さんとそれは全く関係、縁がないんですよ。出てくる理由がわからない。」と答えてくれました。

前述のように、彼の霊覚には信頼が置けましたので、そういう事もあるのか程度に納得し、しばらくそのことは忘れていました。

そして、それから数ヶ月、都内のホテルのロビーで、再び彼と仕事上の打ち合わせをしていたときのことです。

たまたま隣の席にいた年配の男性二人の大きな声の会話の話題が古い漫画のことだったことから、幼い時に水木しげるの漫画に強い印象を受けたことやそのタッチの印象が強烈だったので水木しげるの原画を探していることを彼に話しました。

それを聞いた彼は即座に「それで判りました。水木しげるですよ。先日のホテルの妖怪の原因は。」と言い、このように語ってくれました。

「横井さんが水木しげるに意識を向けたんですね。しかもわりに長い間原画を探していましたね。それで横井さんと水木しげるとの間にいわば道が出来たんです。その道をたどって、ホテルの妖怪がやってきたんですよ。水木しげるという人はそういう人、いわば妖怪たちの世界との接点なんです。だからそこに意識を向けるとそこにいる妖怪との道が出来るんですよ。それで横井さんに興味を持ったか何かで、それが出てきたんです。」

これを聞いて私は「なるほど」と思いました。これまでも何度か書いてきましたが、私たちの世界が異次元に包まれていることは、物理学、量子力学の研究から明らかになっています。私たちがいるのは、縦横高さの3次元空間に時間を加えた四次元世界ですが、研究では11次元世界までの存在が認めら
ています。

それらの世界は我々のすぐそばに存在しています。すぐそばと言っても空間的概念ではありません。敢えて言えば重なっている、織り込まれている、というのが適切な表現でしょう。そして異次元世界を大きく分ければ、これまで何度か書いてきたように幽界、霊界、神界がそれにあたります。私のところにやってきた妖怪の世界は幽界にあるのでしょう。

それらの世界は目には見えませんが、存在します。目に見えるもの、耳に聞こえるものしか信じない、というのは科学的ではありません。

可視光線は人間の目に見える範囲の波長の電磁波ですが、目に見えない赤外線や紫外線が存在しないという人はいないでしょう。狩猟で猟犬を呼ぶときに使う犬笛の波長は人間には聞こえないものですが、犬には聞こえます。見えなくとも、聞こえなくとも「存在する」ものがあるというのは少し冷静になれば判ります。

すべてのものは波動ですから、波動が違うものは交わりません。見えませんし、聞こえません。物理学や量子力学で言う多次元世界はそういうもので、幽界、霊界、神界も同様です。見えないから「ない」のではありません。

少し脱線しましたが、水木しげるに向けた私の意識をたどって妖怪がやってきたことから気付いた大事なことです。

それは意識の力です。妖怪にだって届くのですから、もちろん神様にだって届くでしょう。前述の七つの場の体験も同じように考えることが出来ます。七つの場を通じて私の意識が一層強力に守護の神霊に向けられたのではないでしょうか。

そう考えれば、「守護霊さま有難うございます、守護神さま有難うございます、」という感謝の思いはそのまま道になり、守護霊、守護神を身近に引き寄せ、縁ある人、子孫たちを守りやすくしてくれるんだ、だから守護霊、守護神への感謝が大事なのだ、という事になります。これらの体験は改めてその事を深く認識する良い機会になりました。

五井先生の教え

五井先生もこのように仰せです。

守護霊にとって、一番働きやすい、肉体人間の状態は、常に守護霊のほうに心を向けていてくれることである。守護霊の存在のいかに重大であるかを知って、常に守護霊に感謝を捧げている子孫ほど、守りやすい肉体はないのである。

これは「意識を向けさえすれば通じるのである」という私が妖怪体験でもてた確信を裏付ける五井先生のお言葉です。

桃仙先生の「お墓参りをしなさい」という言葉も、守護の神霊への感謝の念がその守りを一層強く、確かなものにする、という事をおっしゃったものです。

だからお墓参りや仏壇に手を合わせることには大事な意味があります。もちろん、お墓や仏壇の中にご先祖や守護霊がいらっしゃるわけではありません。

しかし、通常、人は具体的な対象があるほうが、その気になるものです。何もないより対象が明瞭なら本気になって感謝をささげることが出来ます。一種のアンテナが立っていると考えても良いでしょう。

夢も守護霊の尊い働き

五井先生は目に見えない守護の神霊のさらに「目につきにくい」重要な働きが「夢」であると、このように教えて下さっています。

神は愛である。愛であるから、守護神を我らにつかわし、守護霊を任じて、人間世界の悪因縁を消滅し去ろうとしているのである。守護霊を信じ、守護神を想い、神に感謝しなければ、いくら因縁の転回や、心の法則を知ったところで、人間は永久に救われない。

こちらが知っても知らなくとも、守護霊はただ、黙って人間を守っていてくれる。夢などはその顕著なるものである。

夢は何故見るか、この問題は世界の学者が種々と研究をつづけているのだが、いまだに、はっきりとわかっていない。夢とは人間の業因縁の消滅する姿である、と私はいう。想念は必ず現われる。この法則は動かしがたい法則である。この法則のままに、想うことがそのままこの肉体界に現われたら、この人生は、もっともっと以前に滅びていたに違いない。

何故ならば、肉体の人間の心を奥底まで解剖すれば、愛は情に流れて執着となり、恨みは恨みを重ね、悲しみは悲しみを追い、闘争心は常に戦火を絶やさず、情慾業火は至る所に燃えひろがり、殺傷事件は眼に触れるあらゆる箇所に展開されていることは明らかである。

この業念の感情を、肉体脳髄の念の休止している間に、巧みに夢として肉体世界と離して、画き出してしまうのが守護霊の偉大なる一つの仕事なのである。現われれば消えるのが想念の性格であるので、夢として画き出されてしまえば、その想念は消えてしまう。

肉体世界に現われた場合は、その現れが、また頭脳にキャッチされて、再び同じ想念を幽体に記録してしまうが(それでも現われれば幾分ずつか、消えてゆく。)、夢の場合はその想念が巧みに戯画化されていて、いったいなんの想念であるか判然としないので、醒めた後人で、いくら肉体頭脳で思ってみても、その夢に現われた想念は再び幽体に記録されることはない。その想念は夢によって一度断ち切られるので、業因縁がそれだけ消えたことになる。

五井先生は、夢はこの肉体界(現世)に表れるべき悪想念を夢という形で顕し、消してしまう守護霊の働きだとされて、更にこのようにおっしゃいます。

たまたまはっきり憶えている夢もあるが、守護霊が予知的に、その人に示す夢(霊夢)以外は、その夢の画が、やはり、その想念の内容を察知できぬように描いてあって、判然としない。フロイトという精神分析学者は、この夢をすべて性欲(リビドー)の現れと解釈していて、夢に現われる物質、風景、氏名等によって、それぞれの内容を解剖しているが、私の述べていることとはまるで異なる解釈で、人間の救いには、あまり役立たぬものと思う。

判然としない夢は、そのまま判然とさせる必要はないので、ただ、簡単に、自分の悪想念が肉体の悪い運命となって現われるのを、守護霊がその夢と現わして消して下さったのだ、と感謝すればよいのである。このことを知ることは大きな救いになると思う。

この守護霊の働きは真に感謝しなければならぬものである。守護霊は霊界、幽界、肉体界と三界を通して働ける者なので、幽界において、できつつある運命、あるいはすでにできあがって、時間の経過につれて自然に肉体界(現界)の運命として現われようとする悪想念の結果(因果)を、あらゆる手段をもって、その人間の運命として現われぬように修正してゆく。

自分が過去(過去世も含めて)に発した想念行為は善悪を問わず、必ず自分に返ってきます。これが因縁因果、因果応報の理法です。善い方の因果応報はどんどん現れて、受ければよいのですが、悪い方の因果応報については、守護の神霊がなんとか小さく、軽く済ませられるようにと、工夫をされていらっしゃるのでしょう。夢は正にそんな働きである、という五井先生のお言葉です。これに関わるような体験を以前のブログに書いたので、これもあわせてここに紹介します。

ストーカー事件

私の実家は大阪府枚方市にあり、実家に帰った時のことです。私の習慣は朝の散歩で、その朝も近隣で小一時間の散歩を楽しんでいました。

その帰り際です。前を歩いていた四十歳くらいの男性からいきなりストーカー呼ばわりされたのです。

前を歩いていたと言っても、私は脇道から彼の歩いている道へ出たばかりで、ほとんど出合い頭に近い言いがかりでした。私は何のことかわからず、一瞬絶句しましたが、彼は「ずっとついてきている」「何かうらみがあるのか」「いい加減にしろ」などと一方的に罵声を浴びせかけてきます。

もちろん初めて会った男性でしたから、理不尽に対して反論しましたが、彼は聞き入れません。その日は仕事があり、余り時間を取るわけにいかないので、どなる彼を振り切って、帰路につきました。幸い彼は追っては来ません。

帰宅するまでほんの5分ほどでしたが、男性を振り切った直後は理不尽な彼への怒りで頭に血が上り、心拍数も上がっていたのですが、家に着くころにはすっかり気持ちが穏やかになり、彼への感謝の気持ちすら湧いてきました。

なぜそのように心境が変化したのかですが、それはこのように考えることが出来たからです。

人生で起こることには必ず原因や理由があります。さっきの理不尽なストーカー呼ばわりにも理由があるはずだと考えていたら、あれは「消えていく姿」だったという事に気がついたのです。おそらく私には誰かと争い、もしかすると怪我でもするような因縁があったに違いありません。原因があれば必ず結果が生じます。その現れるべき因縁をたまたま通りがかった少しおかしな男性からの言いがかりという形で表して、小さく、消してくださったに違いない、ということが理解できたからです。

「消してくださった」としたのはそこに守護の神霊の働きを感じたからでした。

私はこの事を真実そうであったと思っています。

五井先生はこのような守護霊、守護神の働きをこう教えてくださっています。

過去世の借金というか、過去世の因縁として悪い行ないをし、悪い想いをしていたら、それだけが現われて消えてゆくわけです。
その悪い行ないというのはどういうのかというと、神のみ心から離れているもの、大調和精神のみ心から外れているものです。
そういう業がある以上は、神様のみ心の中にスッカリのれません。神のみ心にスッキリとつながるのを邪魔する業想念というものを、病気や不幸や災難にして出して消してしまうわけです。
業がある以上はどんなことをしても、それが出てくるわけです。しかし、守護霊、守護神につながり、祈り心で加護を願っていますと、守護霊、守護神が肩替りしてくれるのです。
百ある業想念を九十背負ってくれ、あと十だけ肉体のほうへ出して、肉体は十だけのものを背負っていけばいいようにしてくれるのです。
いっぺんに千だとか万だとかたくさんのものを出したら苦痛が激しくつぶれてしまうから少しずつ出して消してゆく。人間側に力がつけばそれだけのものを出してゆく。
そしてあまり気が付かないうちに出してしまって、苦しみ少なくてこの人生を過ごしてゆけるようになるのです。ですから守護霊、守護神の加護というものは大変なものなのです。
五井先生はこうもおっしゃっています。
消えてゆく姿というのは、自分が消すのではないんですよ。(中略)自分で消せるようならば、みんな悟れて楽なもんですよ。自分で消せないところに、守護霊守護神がいて、神様の愛が本当にそこでわかるのです。この世というものは、自分ではなんにも消せない。自分で消すものは一つもないです。みんな守護霊守護神が消してくれる。

散歩中のストーカー呼ばわりの時に、怒りを感謝に置き換えることが出来たのはこの五井先生の教えが思い出されたからです。だから家に帰るまでの数分、ずっと心の中は神様、守護霊への感謝で満たされていました。

このブログで改めてこのエピソードを紹介しながら思うのは、人生で起こる不幸や不都合の原因は過去の自身の想念、行為にあり、それが自分に戻ってくるという因果の法則の問題であるということ、さらに子孫や被守護者が出来るだけ苦しまないように、痛みが小さくなるように力を尽くしてくださっている守護の神霊の存在がある、ということです。

< p>そして人生の不幸や不都合こそ、幸せや人間としての成長への転換点として真に喜ぶべきものであり、神霊への感謝とともに受け止めねばならないものである、ということです。

守護霊の働き方

五井先生は更に具体的な守護霊の働きをこのようにも教えて下さっています。

いったいどういう風に守護霊が運命を修正してゆくかというと、種々の方法がある。

例えば、転覆した汽車に乗るべきを、忘れ物をして乗り遅れたため、生命の危機を逃れた。

という場合、物を忘れた、この忘れ物に守護霊の働きがあるので、守護霊の念がその人の肉体頭脳に働きかけ、その人の頭の回転を瞬間的に阻止して物を忘れさせるのである。

また他の人を使って、自分の守護する人間を助ける場合もある。例えば、ある人が、何か急に友人Aを尋ねたくなり、別段に用事もないのに、急用でもある気持で、その友人を尋ねる。と、友人A一家は、事業に失敗して、今まさに一家心中の手前であった。驚いたその人はその友人の為に早速一肌脱いでやることになった。この場合、Aの守護霊はAを助けるため、Aと波長の合う友人のある人に思いを送り、Aの家へ引き寄せたのである。この友人なら、Aを救ってくれる、ということを、守護霊ははっきり知っているのである。この二つの例のようなことが、常に人間世界の生活の上に起っているのである。

五井先生は守護の神霊の働きがどのように行われるかの例を上のように紹介され、このようなことが常に人間世界の生活に起こっているともおっしゃっています。それはもう涙ぐましいほどの働きがあると次のようにおっしゃってもいます。

守護霊はその被守護体の眠っている時から醒めて働いている時、休んでいる時、いついかなる時間にも、この人間を守りつづけているのである。そして、この人間の発する悪想念の蓄積を浄めるために、たゆまざる努力をつづけているのである。もっとも、肉体界(現界)の救いとしては、この人間にでき得るかぎりの努力、経験をさせつつ、いざという時に助けるのである。

守護霊は子孫や深い縁のある守護の対象者の真の救われ、魂の進化、成長に必要な努力、経験をさせつつ、見守ってくださっています。お話は続きます。

やっと眠りの世界に肉体が入った時、無心になった肉体脳髄から、悪想念の蓄積(その時々の因縁)を夢として消すことより仕方がない。

そこでこうした人を守るためには、先程の二例のように、他の人に送念して、他の人から注意や、助太刀をしてもらうことにする。この時の相手は、必ず過去世において、守護霊同志、または、肉体人間同志が、因縁浅からぬ者でなければ駄目なのである。

しかし時には、その被守護体の人間が、あまりにも業因縁が深く、迷(無明)で分霊の光をほとんど覆ってしまっている場合には、いかに守護霊が全力を挙げて浄めたり、奔走したりしても、通じない。仕方がないので、守護霊は、守護神に救援を願うのである。

すると守護神はこの願いを聞き入れて、大いなる神の光を、その肉体人間に放射する。この光は業因縁を通して、分霊に通じ、分霊の光の力が増してくる。この時、なんとなくこの肉体人間の心(脳髄)に宗教への関心が湧いてくる。この場合、たんにご利益信心的な心であるかも知れない。それでもよいのである。この人間にとっては、その気持の起ったことが、一歩も二歩もの進歩なのである。その時、守護霊は、その機会を逃がさず、その人間に適当する宗教に、その人間を導くのである。

五井先生は更にこのようようにも仰せです。

(守護の対象者が)苦しくてどうしようもなくなれば、必ず守護霊さんが連れてくるんです。それで消えてゆく姿をやらせるんですよ。消えてゆく姿というのは、自分が消すのではないんですよ。

よく間違えて、自分がいき張って消すんだと思っている。コンチクショウと思って消そうと思うのですが、なかなか消えない。あれ邪魔だから消しちまえ、なんていうのではないのです。自分で消すのはそれは自我です。あるいは自力というのです。

自分で消せるようならば、みんな悟れて楽なもんですよ。自分で消せないところに、守護霊守護神がいて、神様の愛が本当にそこでわかるのです。この世というものは、自分ではなんにも消せない。自分で消すものは一つもないです。みんな守護霊守護神が消してくれる。

たとえば短気の想いがあるとする。これを消さなきや消さなきや、消そうと思っても、思うそばから出てくる。恐怖でも同じです。恐れまい恐れまい、恐怖してはいけない、いけないと思っていると、よけいに恐ろしくなってくる。そういう経験がありますね。

それは自我なんです。力みというんです。よほど強い人をのぞいて、ふつう一般の人では消すことは出来ない。そこで私は、消してゆく姿ではなくて、消えてゆく姿というんです。決して消してゆく姿とはいっていません。消えてゆく姿なのです。

それでもなかなか消えない場合にどうするかをこうも仰せです。

また、ある場合は、守護神の光によって、一挙に幽界に転出してしまうことがある。いいかえれば、急死してしまうことがある。それは、そのほうが、この人間の進歩に都合が良いからである。

厳しいお話ですが、守護される当人に一向に自覚が生じず、これ以上地上にとどまっても進歩がない、運命の修正がままならない場合は、死によって、運命の修正が可能な世界に転出、移行させることもある、ということです。そして、守護霊、守護神への全託と感謝こそが幸福な人生への直道であることを教えてくださいます。

以上のように守護霊は肉体人間と一つになって、人間を善導しているのである。人間が、自己の運命を改善し、幸福になりたいとするならば、ただ、守護霊に自己の運命を委せればよい。守護霊さん、ありがとうございます、守護神さん、ありがとうございます、神様、ありがとうございます、と常に感謝していればよい。

この心が神への全託なのであり、守護霊の活躍を充分にさせる一番よい方法なのである。

この心でいれば、その人の行動はおのずから、調和した整ったものになり、生活は楽しく楽になるに決まっているのである。

今日ここで紹介した自身の体
験からも、これらの五井先生のお話は「その通り」だ、断言できます。また五井先生はもし迷った時は守護霊に尋ねなさい、とおっしゃっています。今日の締めくくりに紹介します。

もし迷う事柄があったら、心の中で守護霊さんを呼びながら、その裁断を願えば、必ずなんらかの形で、その答をしてくれる。それは前に述べたように他の人に逢って、その人の口から聞かされるかも知れぬ。あるいは、ピンと直感的にひらめくかも知れぬ。ただ、この場合、前者なら、最初に逢った人であり、後者なら、最初の直感、第一直感が、その答である。

その答がいかに、現在の自分に都合が悪いように思えても、それは後によくなる方法に違いないのである。それを信じなければならぬ。第二直感で出てくることは業因縁の答であるから、よくよく注意せねばならぬ。

そこで、私は迷った時は氏神様のおみくじを引いたら良い、と思います。またそのようにアドバイスをし、良い結果を得たことがあります。

おみくじは守護霊、守護神への感謝を念じ、「どうか良いアドバイスを下さい」と思いながら引くのです。その場合、内容が大事ですから、吉凶に動じず中身をよく読んでみたらよいのです。そこにヒントがあるはずです。

長くなりましたので、今日はここまでとします。近いうちにこの続きを書こうと思います。

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新しい年、2019年が始まりました。

本年もブログ「自分教ガイド」をよろしくお願いいたします。

昨年はやや更新不足だったこのブログですが、今年は初心に戻って積極的に更新していくつもりです。また内容の方もヌーソロジーを中心としつつ、そこに自分教ガイド・とうしん独自の観点から、読者の皆さんがそれぞれの「自分教」を確立できるように、より実践的なものを多く発信していきたいと思います。

さて新年最初のテーマは、『善悪観念からの卒業』です。私自身はクリスチャン出身ということもあって、特定の宗教観念とか、特定の信仰団体や信念体系に囚われた経験があり、そのことによる功罪をいやというほど体感してきました。

本日の記事は、主に宗教がらみの苦い経験を引きずっている人向けです。しかし宗教とは無縁の生活をして来た方であっても、何らかの信念に囚われたことはあるでしょうから、それぞれの立場にあてはめて読んでみて下さい。

先週にほぼ書き上げた記事ですが、かなり長くなりましたので、これから3回に分けてアップしたいと思います。

それでは早速始めましょう。

『善悪観念からの卒業』全3回シリーズ
第1回テーマ:神と悪魔は表裏一体

シリーズ第1回目は、『神と悪魔は表裏一体』というお話をしたいと思います。

いきなりこんな事を言っても拒絶か無視されることは分かっています。神を信仰してきた宗教経験者にとって、信仰生活での尊い経験や美しい記憶、信じていた教祖や教団仲間達への思い入れなどが複雑に絡む問題ですから、ことはそう単純ではないでしょう。それゆえ、まずは事実関係からクールにせめてみたいと思います。

●大病院を支えているのはガン患者

大病院を支えているのはガン患者・・・例えば抗がん剤の価格はピンからキリまでありますが、昨年ノーベル賞で有名になった「オプシーボ」は100mgで73万円、1gなら730万円です。もちろん患者には自己負担3割に高額療養費などで支出は抑えられますが、公的保険から支払われる費用で病院と製薬会社は儲かります。人工透析患者一人あたり年間500万円の売上げを病院にもたらすそうです。日本の医療費は2015年度で約42兆3644億円。40兆を超える医療費を病院関連で分け合っています。

病気やケガなどが病院を支えている。これはそのまま精神世界、とくに宗教団体というシステムにも言えることではないでしょうか。

宗教で言えば、悩み苦しみ、様々な問題や葛藤が宗教を支えています。宗教に一番利益をもたらし、宗教を根底で支えているのは、人間に苦しみを与える存在、つまり悪魔なのです。これは事実です。このことは冷静になって向き合う必要があると思います。

悪魔が宗教を支えている。悪魔がいなければ宗教は成立できない。救い主も教団組織も、全ては悪魔との協働によって維持されています。「聖なるもの」を求める欲望が実はどれほど「汚れているもの」なのか、一度そのことを冷静に見つめる必要があります。

●歴史的事実をみても・・・宗教が見せる排他性と熾烈な争い

宗教は多くの血を流してきました。それも殉教の血という美しいものだけではありません。征服・殺戮の血をたくさん流してきたのです。例えばキリスト教では中世・十字軍によるエルサレムでの殺戮。ユダヤ人・アラブ人という理由だけで一般市民・女性子供ら数十万人を虐殺し、十字軍の兵士は返り血を浴びたまま神に歓喜の祈りを捧げました。そしてアフリカ大陸の征服と搾取、南北アメリカ大陸に渡っての原住民の虐殺と搾取にも宗教がからんでいます。

日本においても豊臣秀吉によるキリスト教禁止の理由の1つに、ポルトガル宣教師による日本人奴隷の輸出がありました。いろんな説が入り乱れていますが、数十万人が奴隷として売られていったという文献もあります。いまでもポルトガルやスペインには日本人の血を受け継ぐ人が沢山います。とにかく当時の西欧支配者の精神性にキリスト教的価値観から来る優越感と差別があったことは間違いありません。有色人種や土俗宗教をとことん野蛮なものとして見下していたのです。

宗教は権力、排他性・独善性、人種差別など数々の問題をもたらします。それはキリスト教など一神教にだけ見られるものではなく、仏教の歴史にも見られます。これは何故でしょうか。

●宗教は善悪観念を持つ

過去宗教が残した多くの課題を解決するべく、現代に入り新しい宗教が多数登場しました。いわゆる新興宗教の数々。しかしながら、それら新興宗教が人類の課題を解決したとは到底思えません。むしろ新たに多くの問題と混乱を巻き起こしています。信じて裏切られた人も多いでしょう。信じ切れなかった挫折感を引きずる問題もあります。いずれにせよ、幸福を実現するはずの宗教が、不幸と悲劇を産み出しているという事実・・・これは経験者には分かる、と思います。

なぜそのような事になってしまうのでしょうか。本日のテーマである「神と悪魔は表裏一体」とは、その理由を端的な言葉で言い表しています。

宗教は、かならず善悪観念を持っています。そこには悪魔の存在が出てきます。その悪魔との関係において原罪や堕落、そして救済の概念があります。これはキリスト教系でなくても、大抵の宗教においては、善悪の分離闘争、つまり「善の主体である神」と「悪の主体である悪魔」というような二元闘争物語があるのです。善悪二神と言えば古代宗教であるゾロアスター教が有名ですが、古代ゾロアスター教から今日に至るまで、この二元闘争物語は続いているのです。

ところで本来の神とは、悪を認めないほどの絶対性があるのではないでしょうか。なぜなら本来の神は「絶対善」だからです。信仰者ならこの事に異論は無いはず。神学的にもこれは正しい解釈です。絶対善である神が対象とするものはすべて善となります。それ故、悪とは神の対象にならない存在なのです。分かりすく言うと、本来の神は悪を完全に無視するはずです。

これが神を信仰する宗教に入ると、必ずや善悪闘争物語の中に巻き込まれます。神の意図に反して悪魔が大活躍するのです。その理由は「罪観」にあります。

これまた多くの宗教に共通ですが、それは「悪の責任が人間にある」という何らかの罪観があるのです。これによって人間にとんでもない重責が押しつけられます。人間はここから善悪分離の
性的分裂症という不治の病にかかり、宗教という病院から一生、さらには死後の世界までも逃れられない状態に落とされるのです。

この状況は、先にあげた病気と病院の関係に似ています。病院は病気を治したい。でも病気が病院を支える。医者と患者の関係。病院を支えているのは患者。何か同じ構造があると思いませんか。

(※誤解しないで頂きたいのですが、生命の現場・限界状況の中で日々格闘されている医療関係者をディスるつもりは全くありません。それどころか、私は医療関係者に対しては最大級のリスペクトを持っています。ただただ、頭が下がる思いです。私がここで問題にしたいのは「構造」です。人間が持っている限界構造。この閉塞状況を突破したいという意図だけなのです。)

病院が病気を必要とするように、宗教には「罪」が必要なのです。罪がなければ宗教は成り立ちません。しかしながら、神とは本来、罪とは全く関係がありません。つまり、罪を扱う場所と神を扱う場所が同じにはならないのです。これは困った。そこで「罪の主体」であるもう1つの神、つまり悪魔が必要になるのです。これが宗教の構造です。

まとめると、何らかの神を信仰する宗教は、実際には悪魔の存在を同時に必要とし、神と悪魔の二神論となって、人間を善悪の分離・葛藤状態に閉じ込める。二元論状態です。そして善悪分離というのは、実際には霊と肉の分離、心身の分離を引き起こします。理想と現実の葛藤状態です。この二元論闘争状態が、宗教の統治にとって根本的に必要なものとなります。

このような善悪二元闘争を必要とする精神を私は「一神教精神」と呼んでいます。一神教ではない、むしろ多神教であるという宗教があったとしても、そこに「善悪観念」がある以上は「一神教精神」の範疇にあるのです。そうではないでしょうか。

●新しい元号スタート、いよいよ自身の善悪闘争を終わらせよう

宗教は必ず善悪観念をもつ。神を信仰するということは、その裏に悪魔の存在を必要とする。そんな神を信仰する人間は、神と悪魔の善悪二神によって心身分離し、慢性的葛藤状態に陥る。このような善悪二神闘争をもたらす精神が「一神教精神」。その意味で、いかなる宗教も一神教精神の範疇にあると言える。

一神教精神は「善悪二神」という振り子を作り出すのです。本日のテーマである「神と悪魔は表裏一体」というのは、この振り子としての「善悪二神」のことです。

「神様が実は悪魔と同じだった」などと言われたら、信仰心のある人が反発するのは当たり前です。でもそれは振り子としての「善悪二神」のことであって、心の美しい皆さんが、愛し、信じ、求めて来た「本来の神様」のことではありません。そのような神様は皆さんの心の投影なのです。皆さんの美しい心が、それを表現しているのです。その神様は皆さんの心の中にいるのです。

皆さんの心の中にある「神様」の登場を阻んでいるのが、外側から圧力をかけてくる一神教精神なのです。本来は、神(カミ)+我(ガ)=鏡(カガミ)として、「完全なる鏡認識」のもとに神人合一があるということを以前にお伝えしました。一神教精神はその鏡を割って「主体vs客体」の対象認識をもたらし、神と我を分離し、外側に神を祀らせようとします。それを元に戻し、鏡認識を取り戻す必要があります。

鏡認識に至れば、原罪論などもおかしな話であるということが分かるのです。罪を語るものは、罪自身なのです。いわゆる「魔釣り」ですね。正神をたてまつる「祀り」に対して、魔を引き釣り出す「魔釣り」。「まつり」には2種類ある、というのが日月神示関連でよく言われます。

「悪魔」や「罪」というものは、人の心にある魔を釣り上げる為の概念。清水で油汚れを落とせないように、油には油と同じものをあてなければなりません。それと同じ。鬼をみるものは鬼であり、仏をみるものは仏であると。ここに最後の「一厘の秘密」が関係しています。

そして神人合一する鏡認識においては、神と私は「一対一の関係」となります。この関係こそが真の一神教であり、偶像崇拝という「幅認識」を避ける、純粋な「奥行き認識」の一神教である、と私は本に書きました。そして、それぞれが神人合一して「自分自神」なのですから、多神教でもあります。「一神教即多神教」の世界、それが「和多志」の世界です。これがスピリチュアルで言われるムーの記憶であり、縄文、古代日本精神です。

「和多志」とは「私」の古語。この語の中に古代日本精神、日本語の精神がよく現れています。

ところで今年は新天皇による新元号スタートの重要な節目。前回の昭和から平成への移行時には「東西冷戦の終結」がありました。それでいくと、今回の移行時には「南北冷戦の終結」があると予想されます。それは朝鮮半島の南北統一かも知れません。(※現在、北主導の統一になる可能性がまことしやかに囁かれていますね) 

しかし、そのような外側のことよりも、私たちは自身の内側の南北冷戦を終結しなければなりません。すなわち、本日一貫して語ってきている「神と悪魔による茶番の善悪闘争」を各自がそろそろ終わらせる時が来たのです。

●最後に・・・私たちが行くのは第4番目の道である

最後にシュタイナーの霊智をかりて、神や悪魔の問題をとうしん流にまとめてみます。

まず3つの道があります。

1.唯物論の道
すべて物質、神や霊など存在しないという立場。悪としては「アーリマン」。

2.二元論の道
霊と物質の分離、二元。終わりなき二元闘争におかれる立場。悪としては「一神教精神・ヤハウェ」。

3.唯心論の道
すべて霊、物質など存在しないという立場。悪としては「ルシファー」。

シュタイナー思想では、悪魔は2種類いるのですね。それがアーリマンとルシファー。以下に説明していきますが、ここにはヌーソロジー的な「四値論理」の構造を感じます。一者的価値観による振り子的二元論(プラス・マイナス)が人間を慢性的葛藤状態に閉じ込めます。そこを突破するのが四値論理。これは意識進化した変換人の論理である、というの
がヌーソロジーのキモですね。ちなみにこの四値論理とは、道教の陰陽太極図が表しているものと同じです。

さてそれで、人間は2番目の二元論の世界に叩き込まれています。ここで善悪闘争にあけくれ、慢性的な心身分離に陥ります。「二元論=人間論」という感じです。そして上で述べてきましたが、この二元闘争を作り出しているのが、神と悪魔であり、その大本の一神教精神、偶像と化したヤハウェ(本来の「YHWH」ではないという意味)。

そこで1番目が出てきます。宗教の欺瞞に気づき脱出しようという1つの試みです。それが唯物論。科学者達の多くがこの方向性を追求しています。しかしこれは言わずもがな、直観的なオカシさがあります。魂や死後の世界を否定する立場で、私たちの素朴な直観には反しています。この領域を支配する悪の力を、シュタイナーは「アーリマン」と呼びました。これはゾロアスター教の悪神「アンラ・マンユ」のことです。日本語表記が違うだけで、同じ意味。唯物論の暴走を主導する精神がアーリマンです。

そして3番目。純粋なる霊の世界、精神一元を求めようとする態度です。仏教の唯識などがそうですし、最近では現代スピリチュアルの根底にある「奇跡の学習コース」や、無我の現代的表現である「ノンデュアリティ」などもそう。奇跡のコースは、純然たる神一元論で、「神の霊」だけ、ということを宣言します。悪魔も物質も認めません。それらは全て「錯覚」という判断です。これは本来の一神教のカタチだと言えます。それで実践論としてはただひたすらの「許し」を主張します。

一元論ですから、主客一致の認識であり、かつ他者も認めません。なので、すべては自分の投影。他人に見える「怒り」は自分の「怒り」の投影であるとし、どこまでもただひたすら自己の内側の許しを追求していきます。これは先ほど説明した「鏡認識」ですね。

ちなみに私は「奇跡のコース」の方向性を大変評価しています。この道は「責任転嫁」を一切せず、すべてを自分の責任、自分だけの責任として引き受けていく道です。完全な鏡認識の道、「ホ・オポノポノ」と同じですね。

それが「ノンデュアリティ」までいくと、「自分がない」のですからそもそも「責任もない」という「完全解放」に向かいます。なるほど、その破壊力には目を見張るものがあります。しかし、不真面目な人に悪用されてしまうのでは? と心配になります。え、その心配する自分もないから関係ないって? はいはい、ノンデュアリティだからそうですよね。

ともかく、「純粋な一元」を求める立場が「奇跡のコース」や「ノンデュアリティ」であるということです。

しかしながら、シュタイナー~ヌーソロジー~自分教の見地から言えば、この立場にも問題が残ります。この立場に立つと、知らず「物質軽視」に陥ります。長い目でみれば、この方向性を採用してしまうと文明が停滞します。これはインドやチベットなど、東洋文明に停滞をもたらした原因でもあります。

シュタイナーが凄いのは、この領域を「ルシファー」的誘惑としていることです。シュタイナー思想で出てくる2つの悪魔的存在、アーリマンとルシファー。その内の1つです。これら悪魔は人間に干渉して、人間の霊性の健全な成長を阻害するというのです。ここにおいて、人間は自らの責任において、アーリマン的なものだけでなく、ルシファー的なものの誘惑をも避けながら成長していかなければならない、と説かれているのです。悪魔には2種類あるということですね。

ルシファー的悪を分かり易く言えば、酒に酔っ払ったような精神的快楽を求める悪のことです。厭世的な態度です。シュタイナーが神智学のブラバッキー夫人と袂を分かった理由の1つがここにあります。ブラバッキー夫人らが、古代エジプトの夢見心地な霊的体験を重視する方向にメンバーを指導していくので、シュタイナーはそれに反発し、神智学協会を脱会して人智学協会を設立したという経緯があったようです。霊性をもとめて、スピ的な楽しさばかり求めるのもルシファー的誘惑だと言えます。瞑想に伴う至高体験に固執する態度も例外ではありません。

またルシファー的悪には独特の排他性があります。この世界に耽溺するようになると、もう他人の言うことを一切聞かなくなるという傾向が顕著に見られます。瞑想に向かう方向性には他者がいないのですから、仕方がありません。

※『シュタイナー思想とヌーソロジー』・・・これは不朽の名著になると思います(統心)

●第4の道、「真の二元論」へ

当然ながら、ヌーソロジー~自分教がいく道は、これら3つの中にはありません。第4番目の道です。それを敢えて言うなら、

4.『真の二元論の道』

です。真の二元論、双子の精神であり、自己他者・双対性宇宙論のことでもあります。

宇宙の根源は真の二元性である、これがヌーソロジー~自分教の結論です。この真の二元性を採用することによって、善悪闘争は終わってしまいます。闘争するのは一元主義なのです。真の二元とはお互いの差を認めることであり、闘争自体が錯覚であったということが自然に分かるようになります。

次回以降の考察になりますが、真の二元論によって、悪の発生と存在理由もすべて説明されます。一神教精神のように矛盾を隠した偽りを演じる必要はありません。全てがそのまんま、あるがままの世界になります。

また、このあるがままの道は、神道家が大切にしてきた「かんながらの道」のことでもあります。それゆえ、この第4番目の道とは古神道、それもさらに遡る上古代の精神、カタカムナとかホツマツタヱの世界に通じるものがあると思います。

ちなみに私はこの第4番目の道を「スピリチュアル4.0」と呼んでいます。スピ0が唯物論、スピ1.0が精神論、スピ2.0が独我論、スピ3.0が無我論と来てからのスピ4.0です。それは「モノ自体」の世界、「物活論」となるでしょう。そこに「真の二元性」の世界があります。

この「真の二元性」をもたらすためには、まずは頑なな「一神教精神」を解体しなくてはなりません。実は上であげた第1の道「唯物論」も、第3の道「唯心論」も、ともに「一神教精神」に回収されているのです。上の3つ道は、すべて一神教精神の範疇なのです。

お疲れ様でした。第1回目はここまです。このあと今月中に

第2回テーマ

『物質世界の目的は「霊の個体化」にある』

第3回テーマ(最終回)

『「失敗概念の解体」による「善悪観念からの卒業」』

を順にアップする予定です。お楽しみに。

昨年12月の大阪教室では、今回の話につながるような、かなり集大成的なことを語りました。以下にDVDを紹介しています。12月度大阪教室DVDは、いつも愛聴して下さる皆さんだけでなく、始めての方にもお勧めできる内容となっています。

本年もまた、毎月の関西での勉強会とDVD発信をベースに、本日お話した「真の二元論」の実践について、深く探求し、皆さんと分かち合って行きたいと思います。皆さんとの双方向の刺激で、この実践論もどんどん進化していくことができます。

本年も何とぞよろしくお願いいたします。

2019年1月

自分教ガイド・とうしん 拝

【連絡事項①】
●2018年12月度大阪ヌーソロジー教室の動画DVD、できました!

12月テーマ:『一神教精神のあとにに来るもの』
「一神教精神」という「エクスカリバー」を引き抜け!

昨年12月8日に福岡で行いました講演をベースに

講演では掘り下げて語ることのできなかったポイントを

関西ヌース教室ならではの、臨場感とユーモアを交えて詳しく見ていきたいと思います。

初心者にもお勧めの内容です。

動画の冒頭部分をYouTubeにアップしています。

お申し込みは以下のページからどうぞ。

【連絡事項②】
●2019年1月度ヌーソロジー教室やります(京都・大阪)

1月テーマ:2019年の展望

年初は恒例、その年の展望をヌーソロジー的視点を交えながら見ていく回です。

特に今年は平成最後、重要な節目の年です。何が飛び出すことやら。

1年の始め、初詣感覚でお越し下さい(笑)

★1/22(火) 京都ヌース教室
場所:ウィングス京都 会議室11
午後6時半~9時

★1/26(土) 大阪ヌース教室
場所:江之子島文化芸術創造センター Room8
午後1時半~5時

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久しぶりにブログを更新します。

前回は五井先生の「消えてゆく姿」の教えの説明として西式甲田療法の「症状療法」について書きました。その冒頭に書いたように五井先生の教えには「世界平和の祈り」「消えてゆく姿」「守護の神霊への感謝」の3つ柱があります。

そして世界平和の祈りは守護の神霊への感謝で締めくくられています。

世界人類が平和でありますように

日本(にっぽん)が平和でありますように

私達の天命が全うされますように(わたくしたちのてんめいがまっとうされますように)

守護霊様 ありがとうございます

守護神様 ありがとうございます

また五井先生が定められた教義「人間と真実の生き方」の冒頭にも「神霊による守護」が示され、締めくくりには守護の神霊への感謝が世界平和の祈りと共に真の救いの要諦であることを述べられています。

『人間は本来、神の分霊(わけみたま)であって、業生(ごうしょう)ではなく、つねに守護霊、守護神(しゅごじん)によって守られているものである。この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世(かこせ)から現在にいたる誤てる想念が、その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあっても、自分を赦(ゆる)し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真(しん)の救いを体得出来るものである。』

このように神霊の存在を認め、その守護を信ずること、さらに神霊への感謝の重要性を五井先生は繰り返し、述べられていますが、各人を守る神霊について、具体的にこうもおっしゃっています。

一人の人間がここに生きている時には、働いている人間の魂が一つではなくて、うしろに守護神さんが一体、守護霊さんが三体(主守護霊と副守護霊二体)四体の神霊が必ず守っていらっしゃるのです。少なくともネ。それでいろんな人のために尽くしている人や、大きな仕事をしていれば、たくさんの神様が付いて守っていらっしやるのです。自分を絶対守ってくださる方は四体必ずあるのです。

私は若いころからこのような神仏の存在をそれとはなく信じていました。そして五井先生の教えに出会ってからはその存在を身近に感ずるようになりました。

そしてそれが確信へと深まったのには、いくつかの体験がありました。

既にこのブログでは断片的に、それらを紹介してきましたが、今日はそれらをまとめて整理し、合わせて五井先生が守護の神霊の重要な働きについてのべられた言葉を紹介したいと思います。

まず最初は私自身の体験、山本印店との出会いについてです。

山本印店の桃仙(とうせん)先生からおしえられたこと

山本印店は東京、世田谷(せたがや)の知る人ぞ知る、「開運印」で有名なはんこ屋さんです。

山本印店の名前は信頼している人から聞きました。彼からはんこをつくることを薦められていたのですが、当初は開運印などには興味がなく、スルーしていました。しかし仕事上のストレスが高じるようになり、改めて薦められたこともあって、訪問してみる気になりました。

と言っても山本印店は予約を取らねばならず、その予約がなかなか取れないので有名です。しかし運よく予約を取ることが出来、店主の山本桃仙先生からアドバイスを頂く機会を得ました。以来、すっかり先生のファンになり、人生の節目節目で(はんこを作りに行き)アドバイスを頂くようになりました。それは2度目の訪問の折の事です。

現在の私の仕事は経営コンサルタントで、経営、業績改善のアドバイスを生業にしていますが、当時は世間で割に名が知られている会社の役員をしていました。

私はその会社の社長の右腕とか懐刀と周りから言われ、自分もその自負を持って仕事に取り組んできたのですが、徐々に社内で孤立感を感じるようになっていました。

新卒で入試した会社なのですが、社風になじめず、社長との間にもいつしか隙間風が吹くようになり、ついに頼みの社長から役員の退任と子会社社長への就任を言い渡されるに至ります。これはいわば左遷、降格に等しく、それまでサラリーマンとして順調な人生にあった私は失意の底に沈みました。山本印店を再訪したのはその時のことです。新たに設立する子会社の社印を作成する為の訪問でした。

桃仙先生に早速、「社印を作ってほしい」とお願いしたのですが、詳しい話を聞かず、社名のメモを見ただけで言下に「作る必要がない」と言われました。

理由は「この会社は貴方の会社でない、自由に出来ない、だから作っても仕方がない」でした。社長とはいえ自分の会社でないのは事実、その通りです。ちなみにその後しばらくして、本当の自分の会社のはんこを作りに伺った折には、屋号にまでアドバイスを下さり、すぐに作ってくださいましたから、その眼力はホンモノです。

「作っても仕方がない」という言葉を聞いて一層、暗澹(あんたん)たる気持ちになった私の様子を察した先生は詳しい事情を聞いてくださりました。そこで私は問われるままに、会社の事、社長とのことなどを話しました。私は自分の人生が悪い方へ悪い方へと向かっているように感じており、その気持ちは先生にも通じたと思います。私の話を聞かれた先生はこのようなアドバイスを下さりました。

母方のご先祖様が守護霊

その折の先生の言葉です。

「あなたは悪い方へ悪い方へ向かっていると感じているようだけれど、まったく逆。あなたは良い方へ、良い方へ向かっているんだよ。あなたのご先祖様、母方のご先祖様は大変立派な方で、この方があなたを守っている。全然心配することなどない。ところでお墓参りはちゃんとしているかい?(私「母方のお墓はどこにあるかしれません」) ダメじゃない。ちゃんとお参りしないと。」

更にこうおっしゃいます。

「あなたが会社で孤立するのは仕方がない。あなたは大久保彦左衛門*のような人だ。唯一人正しい事を
っている人だから煙たがられ、孤立する。そしてその孤立感や思うようにならない焦燥感が高ずると病気になってしまう。だからあなたを守護しているご先祖様がそうならないように、あなたを安全な方に安全な方に連れて行って下さっているんだよ。」
(注*大久保彦在衛門=徳川幕府、草創期の旗本、頑固一徹な気性で、それを見込んだ家康が三代将軍家光の意見番=耳に痛いことをいう役割、のお墨付きを与えたとの伝承がある)

おそらく、あまりに私がしょげていたからでしょう。更にアドバイスが続きました。

「今は判らないだろうけれど、2年もしないうちに判るようになる。あなたの会社は2年以内に外資との間に大きなトラブル、事件が起こる。その時、もしあなたが役員でいたら、その累(るい)はあなたにも及ぶ。そうならないようにあなたを安全な所へ連れて行って下さっているんだ。この会社(子会社)は何の会社だい?(私「教育やコンサルティングの会社です」) へぇーそれはあなたの天職だよ。あなたはそのために生まれてきたようなものだ。会社はよくあなたのこと見てるよ。だから心配無用。」

概略以上のようなやり取りがあり、はんこを作ってもらえなかった私はがっかりして山本印店を後にしました。そして一年半後の事です。

天職と言われた仕事です。子会社の社長として、意欲をもって取り組んでいましたが、桃仙先生が予言された通りの事件が起こりました。それが原因で私が仕えた2代目社長が辞めることになり、これには正直驚きました。

桃仙先生からはその後、本当の自分の会社のはんこをつくる際に、クライアントであった数社の名前を上げて、どのように付き合えば良いか、質問した時はこのようなアドバイスも頂きました。

「あなたは頼まれたことだけをやっておればよい。あなたから離れていく会社やあなたが見放した会社はダメになるから。」

先の天職というアドバイスと共にこれも大きな自信になりました。

この時の顛末は以下のブログに詳しく書きましたので、興味のある方は読んでみてください。

体験談②守護の神霊の存在を確信した山本印店との出会い

体験談③守護の神霊の働き、「人間万事塞翁が馬」とその後のこと

前述のように、守護の神霊の存在を理解していたつもりでしたが、この体験を通じて、理解は確信へと深まりました。そして桃仙先生のアドバイス通りに母方の墓所へのお墓参りは私の習慣にもなりました。

2つの神秘体験

守護の神霊への確信が深まった別の体験もあらためて紹介します。

まだ私が先の会社の役員だったころの話です。前述のように仕事上の人間関係や責任などから私は少なくないストレスを抱えていました。

当時すでに世界平和の祈りに出会っており、それは大きな力にはなっていましたが、負けまいとする気持ちと孤立感や焦燥感から負けそうになる弱い心の格闘から抜け出せない状態にありました。

そんなある日、白光真宏会の富士聖地の「七つの場の行事」に参加しました。

七つの場の行事はそのころ始まったばかり、初めての参加でした。

参加といっても個人で行う行(ぎょう)で、富士聖地にある片道2-3分の遊歩道に設けられた七つの場で短時間に行います。

七つの場 

七つの場とは以下の七つの場所です。

1. 消えてゆく姿の場

2. 自己否定などの想いを消す場

3. 願望成就の場

4. 光明思想徹底行の場

5. 地球世界感謝行の場

6. 我即神也の場

7. 人類即神也の場

下写真が七つの場への入り口です。

行(ぎょう)と言っても30分もかからないで終えることが出来る簡単なものです。

例えば1の「消えていく姿の場」では自身の心に去来する良くない思い、雑念、妄念、病気や不幸の類をメモ用紙に書いて、世界平和の祈りをしながら炉にくべ、それを燃やします。

その日、私は一番目、二番目を済ませ、三番目の願望実現の場へと進みました。

願望実現の場でもメモ用紙に名前と自分の願望を一つだけ書いて、それが実現する日付を書き、それを封印、所定の場所に安置します。実現したい自分の願望を改めて考えてみましたが、当時は特に物理的な願望はなく、前述の不安動揺にする自分の心に手を焼いていましたので、メモ用紙には「安心立命の境地に立たせてください」とだけ書き、所定の場所に置いて、残りの行を済ませ帰宅しました。

正直言うと、「安心立命の境地」などという抽象的なお願いが短期間にかなうなどとも思いませんでしたから、そのことはすぐ忘れてしまっていました。

49日目の至高体験

それから一月少し経ったころ、当時、白光真宏会の本部があった市川市の聖ヶ丘道場の練成会に参加していました。練成会とは聖ヶ丘道場で当時定期的に行われていた世界平和の祈り(統一)を中心にした行事です。

その日の何回目かの統一を行っていた時のことです。目は閉じたままでしたが、ハッキリした意識があります。突然球体の中心に座っている自分を感じました。手を伸ばしたわけではないのですが、手で触れたような球の感触を実際に感じました。さらに私を包むようなその球体を意識したとたん、私の意識が自分の胸の中心に向かって収縮していく感覚を感じました。どんどん私の中心に意識が向かいます。そしてそれが一点に収縮、行きついた先に「安心立命の境地」がありました。

何とも言えない幸福感、何とも言いようのない安心感、そして何とも言いようのない快感がそこにあります。「至高体験」と言っても良いものでした。そして私は求めていた究極の安心立命が自分自身の中にある事をハッキリ認識しました。そう思ったとたん私の耳に五井先生の霊笛と柏手が聞こえ、練成会の統一修行の場に戻っていました。

最初は何が起こったのかよく判りませんでしたが、よく考えると七つの場での私の願望が聞き届けられ、守護の神霊の導きで、私がいつか行くことが出来る「安心立命の場」に私の意識を連れていって頂いたのだ、ということが判りました。

その後、大ベストセラーになった「神との対話」を読んでいる時に、天国だったか、神様のいらっしゃる境地だったかを問う質問に対して、「永遠に続くエクスタシー」と答えているのを読んで、「それだ!」と思ったことがありますが、それは明瞭な意識体験でした。

これには後日談があります。七つの場の行事の日から、この体験の日がピッタリ49日目であったことに、後日気がつきました。7は神様に縁がある数字で、7×7=49も意味のある数字です。私にはとても自力であのような境地へ行けたとは思えませんから、49日目に気がついたとき、「お前はね、ここまで来れるんだよ」「心配いらないんだよ」と私を守護して下さる守護霊、守護神が教えて下さったのだ、と改めて確信できました。以降、更に守護の神霊の働きへの感謝の念が深まったのは言うまでもありません。

ただ、この体験があったからといって、それが何か特別なことだとは今では思ってはいません。また自分が特別だとも思っていません。

誰にも霊性、神性があり、そして守護の神霊がついていらっしゃいます。私は幸い世界平和の祈りや七つの場を機縁にして、霊性、神性に触れる機会を得ることが出来たというだけです。

そういう体験をしましたが、その後も不安動揺の心が出て来ましたし、常時、安心立命の境地にいるわけでもありませんでした。

しかし、この体験は目には見えない守護の神霊の実在を明瞭に認識する良い機会になりました。

だから、誰がなんといようが、神様はいらっしゃいますし、より身近には先祖や縁のある悟った方が神霊となって四六時中守ってくださっていると確信をもって言えるようにもなりました。

過去のブログではこの体験と共にもう一つの体験を紹介しています。それが「妖怪との遭遇」です。

妖怪との遭遇

これも上の体験の前後にあったことです。ある日、仕事で京都に行くことがあり、定宿にしていた「河原町三条上る」にある老舗ホテルに投宿しました。その夜は得意先の接待。京風の町屋で中華料理屋をご馳走になりましたが、紹興酒が進み、9時過ぎにはすっかり酔ってしまいました。二次会の誘いを断り、呼んでもらったタクシーでホテルに戻り、ようやく部屋にたどりついた私はジャケットも脱がずにベッドに倒れ込んでしまいました。

その日はツインのシングルユースで、奥のベッドに倒れ込みましたが、真夜中過ぎ、寝苦しさに目を覚まし、ジャケットとズボンを脱ぎ、再びベッドに横になりました。その後すぐの事でした。私の後方のもう一つのベッドあたりで「クシャクシャ」と新聞紙を丸めるような音がしました。

すぐ側で聞こえたので、慌てて振り返りましたが、何もありません。外の廊下を誰かが通ったのか、と思い直し、もう一度同じ姿勢で横になった途端の事です。横向きに寝ている私のベッド側の右半身に、それこそ10本くらいの手で触られる感触をハッキリと感じました。それが、あまりに明瞭な感覚だったので、飛び起きました。

直前の新聞紙を丸めるような音、それに続くこれです。私はこの部屋に問題があると思いました。よく耳にする幽霊の出る部屋に違いない、と思いましたが、さほど幽霊を怖いとも思いませんので、「まぁー仕方ないな」と、「もう出るなよ」程度の事を思いながら、再びベッドに横になりました。

その途端、同じことがもう一度起こりました。10本程度の手のようなものでベッドの中から触られたのです。

「これはもう寝てられないな」と思い、仕方がないので持参のパソコンを立ち上げて、前日出来なかったメールのチェックや仕事上の連絡などを始めました。そのうちに空が白みだし、鳥の鳴き声が聞こえるようになりました。

「もう大丈夫だろう」ともう一寝入りしようとした時に、そのホテルに連泊の予定だったことを思い出しました。さすがにこの部屋に連泊は出来ません。結局、ネットで別のホテルを取り、二泊目はキャンセルしました。

チェックアウト時、クレームの一つも言おうとも思いましたが、大人げないとも思い、キャンセルの理由を「予定が変更になった」としてホテルを出ました。

私は霊感、霊媒体質ではありませんので、それまでも、それ以降もこのような体験をしたことはありませんから、不思議には思いましたが、しばらくそのことは忘れていました。

このことを改めて思い出したのは、先に山本印店を紹介してくれた彼と仕事の打ち合わせをしている時でした。

彼は五井先生にもご縁のある方で、優れた霊覚を持っている人です。優れたというのは、彼の霊覚の確かさはそれまでの付き合いで何度も経験していたからです。

幽霊でなく妖怪?

彼との打ち合わせ中、このホテルでの体験を思い出し、初の幽霊体験として話をしました。

彼は首をかしげ、「それは幽霊じゃなく、一番近い表現で言えば妖怪ですよ。」と言います。

「それは何です? また、なぜそんなのが出たんです?」と重ねて尋ねる私に「マクラガエシって判りますか?そういった類です。」と言い、更に、「不思議なのはなぜそこに来たのかですね。横井さんとそれは全く関係、縁がないんですよ。出てくる理由がわからない。」と答えてくれました。

前述のように、彼の霊覚には信頼が置けましたので、そういう事もあるのか程度に納得し、しばらくそのことは忘れていました。

そして、それから数ヶ月、都内のホテルのロビーで、再び彼と仕事上の打ち合わせをしていたときのことです。

たまたま隣の席にいた年配の男性二人の大きな声の会話の話題が古い漫画のことだったことから、幼い時に水木しげるの漫画に強い印象を受けたことやそのタッチの印象が強烈だったので水木しげるの原画を探していることを彼に話しました。

それを聞いた彼は即座に「それで判りました。水木しげるですよ。先日のホテルの妖怪の原因は。」と言い、このように語ってくれました。

「横井さんが水木しげるに意識を向けたんですね。しかもわりに長い間原画を探していましたね。それで横井さんと水木しげるとの間にいわば道が出来たんです。その道をたどって、ホテルの妖怪がやってきたんですよ。水木しげるという人はそういう人、いわば妖怪たちの世界との接点なんです。だからそこに意識を向けるとそこにいる妖怪との道が出来るんですよ。それで横井さんに興味を持ったか何かで、それが出てきたんです。」

これを聞いて私は「なるほど」と思いました。これまでも何度か書いてきましたが、私たちの世界が異次元に包まれていることは、物理学、量子力学の研究から明らかになっています。私たちがいるのは、縦横高さの3次元空間に時間を加えた四次元世界ですが、研究では11次元世界までの存在が認めら
ています。

それらの世界は我々のすぐそばに存在しています。すぐそばと言っても空間的概念ではありません。敢えて言えば重なっている、織り込まれている、というのが適切な表現でしょう。そして異次元世界を大きく分ければ、これまで何度か書いてきたように幽界、霊界、神界がそれにあたります。私のところにやってきた妖怪の世界は幽界にあるのでしょう。

それらの世界は目には見えませんが、存在します。目に見えるもの、耳に聞こえるものしか信じない、というのは科学的ではありません。

可視光線は人間の目に見える範囲の波長の電磁波ですが、目に見えない赤外線や紫外線が存在しないという人はいないでしょう。狩猟で猟犬を呼ぶときに使う犬笛の波長は人間には聞こえないものですが、犬には聞こえます。見えなくとも、聞こえなくとも「存在する」ものがあるというのは少し冷静になれば判ります。

すべてのものは波動ですから、波動が違うものは交わりません。見えませんし、聞こえません。物理学や量子力学で言う多次元世界はそういうもので、幽界、霊界、神界も同様です。見えないから「ない」のではありません。

少し脱線しましたが、水木しげるに向けた私の意識をたどって妖怪がやってきたことから気付いた大事なことです。

それは意識の力です。妖怪にだって届くのですから、もちろん神様にだって届くでしょう。前述の七つの場の体験も同じように考えることが出来ます。七つの場を通じて私の意識が一層強力に守護の神霊に向けられたのではないでしょうか。

そう考えれば、「守護霊さま有難うございます、守護神さま有難うございます、」という感謝の思いはそのまま道になり、守護霊、守護神を身近に引き寄せ、縁ある人、子孫たちを守りやすくしてくれるんだ、だから守護霊、守護神への感謝が大事なのだ、という事になります。これらの体験は改めてその事を深く認識する良い機会になりました。

五井先生の教え

五井先生もこのように仰せです。

守護霊にとって、一番働きやすい、肉体人間の状態は、常に守護霊のほうに心を向けていてくれることである。守護霊の存在のいかに重大であるかを知って、常に守護霊に感謝を捧げている子孫ほど、守りやすい肉体はないのである。

これは「意識を向けさえすれば通じるのである」という私が妖怪体験でもてた確信を裏付ける五井先生のお言葉です。

桃仙先生の「お墓参りをしなさい」という言葉も、守護の神霊への感謝の念がその守りを一層強く、確かなものにする、という事をおっしゃったものです。

だからお墓参りや仏壇に手を合わせることには大事な意味があります。もちろん、お墓や仏壇の中にご先祖や守護霊がいらっしゃるわけではありません。

しかし、通常、人は具体的な対象があるほうが、その気になるものです。何もないより対象が明瞭なら本気になって感謝をささげることが出来ます。一種のアンテナが立っていると考えても良いでしょう。

夢も守護霊の尊い働き

五井先生は目に見えない守護の神霊のさらに「目につきにくい」重要な働きが「夢」であると、このように教えて下さっています。

神は愛である。愛であるから、守護神を我らにつかわし、守護霊を任じて、人間世界の悪因縁を消滅し去ろうとしているのである。守護霊を信じ、守護神を想い、神に感謝しなければ、いくら因縁の転回や、心の法則を知ったところで、人間は永久に救われない。

こちらが知っても知らなくとも、守護霊はただ、黙って人間を守っていてくれる。夢などはその顕著なるものである。

夢は何故見るか、この問題は世界の学者が種々と研究をつづけているのだが、いまだに、はっきりとわかっていない。夢とは人間の業因縁の消滅する姿である、と私はいう。想念は必ず現われる。この法則は動かしがたい法則である。この法則のままに、想うことがそのままこの肉体界に現われたら、この人生は、もっともっと以前に滅びていたに違いない。

何故ならば、肉体の人間の心を奥底まで解剖すれば、愛は情に流れて執着となり、恨みは恨みを重ね、悲しみは悲しみを追い、闘争心は常に戦火を絶やさず、情慾業火は至る所に燃えひろがり、殺傷事件は眼に触れるあらゆる箇所に展開されていることは明らかである。

この業念の感情を、肉体脳髄の念の休止している間に、巧みに夢として肉体世界と離して、画き出してしまうのが守護霊の偉大なる一つの仕事なのである。現われれば消えるのが想念の性格であるので、夢として画き出されてしまえば、その想念は消えてしまう。

肉体世界に現われた場合は、その現れが、また頭脳にキャッチされて、再び同じ想念を幽体に記録してしまうが(それでも現われれば幾分ずつか、消えてゆく。)、夢の場合はその想念が巧みに戯画化されていて、いったいなんの想念であるか判然としないので、醒めた後人で、いくら肉体頭脳で思ってみても、その夢に現われた想念は再び幽体に記録されることはない。その想念は夢によって一度断ち切られるので、業因縁がそれだけ消えたことになる。

五井先生は、夢はこの肉体界(現世)に表れるべき悪想念を夢という形で顕し、消してしまう守護霊の働きだとされて、更にこのようにおっしゃいます。

たまたまはっきり憶えている夢もあるが、守護霊が予知的に、その人に示す夢(霊夢)以外は、その夢の画が、やはり、その想念の内容を察知できぬように描いてあって、判然としない。フロイトという精神分析学者は、この夢をすべて性欲(リビドー)の現れと解釈していて、夢に現われる物質、風景、氏名等によって、それぞれの内容を解剖しているが、私の述べていることとはまるで異なる解釈で、人間の救いには、あまり役立たぬものと思う。

判然としない夢は、そのまま判然とさせる必要はないので、ただ、簡単に、自分の悪想念が肉体の悪い運命となって現われるのを、守護霊がその夢と現わして消して下さったのだ、と感謝すればよいのである。このことを知ることは大きな救いになると思う。

この守護霊の働きは真に感謝しなければならぬものである。守護霊は霊界、幽界、肉体界と三界を通して働ける者なので、幽界において、できつつある運命、あるいはすでにできあがって、時間の経過につれて自然に肉体界(現界)の運命として現われようとする悪想念の結果(因果)を、あらゆる手段をもって、その人間の運命として現われぬように修正してゆく。

自分が過去(過去世も含めて)に発した想念行為は善悪を問わず、必ず自分に返ってきます。これが因縁因果、因果応報の理法です。善い方の因果応報はどんどん現れて、受ければよいのですが、悪い方の因果応報については、守護の神霊がなんとか小さく、軽く済ませられるようにと、工夫をされていらっしゃるのでしょう。夢は正にそんな働きである、という五井先生のお言葉です。これに関わるような体験を以前のブログに書いたので、これもあわせてここに紹介します。

ストーカー事件

私の実家は大阪府枚方市にあり、実家に帰った時のことです。私の習慣は朝の散歩で、その朝も近隣で小一時間の散歩を楽しんでいました。

その帰り際です。前を歩いていた四十歳くらいの男性からいきなりストーカー呼ばわりされたのです。

前を歩いていたと言っても、私は脇道から彼の歩いている道へ出たばかりで、ほとんど出合い頭に近い言いがかりでした。私は何のことかわからず、一瞬絶句しましたが、彼は「ずっとついてきている」「何かうらみがあるのか」「いい加減にしろ」などと一方的に罵声を浴びせかけてきます。

もちろん初めて会った男性でしたから、理不尽に対して反論しましたが、彼は聞き入れません。その日は仕事があり、余り時間を取るわけにいかないので、どなる彼を振り切って、帰路につきました。幸い彼は追っては来ません。

帰宅するまでほんの5分ほどでしたが、男性を振り切った直後は理不尽な彼への怒りで頭に血が上り、心拍数も上がっていたのですが、家に着くころにはすっかり気持ちが穏やかになり、彼への感謝の気持ちすら湧いてきました。

なぜそのように心境が変化したのかですが、それはこのように考えることが出来たからです。

人生で起こることには必ず原因や理由があります。さっきの理不尽なストーカー呼ばわりにも理由があるはずだと考えていたら、あれは「消えていく姿」だったという事に気がついたのです。おそらく私には誰かと争い、もしかすると怪我でもするような因縁があったに違いありません。原因があれば必ず結果が生じます。その現れるべき因縁をたまたま通りがかった少しおかしな男性からの言いがかりという形で表して、小さく、消してくださったに違いない、ということが理解できたからです。

「消してくださった」としたのはそこに守護の神霊の働きを感じたからでした。

私はこの事を真実そうであったと思っています。

五井先生はこのような守護霊、守護神の働きをこう教えてくださっています。

過去世の借金というか、過去世の因縁として悪い行ないをし、悪い想いをしていたら、それだけが現われて消えてゆくわけです。
その悪い行ないというのはどういうのかというと、神のみ心から離れているもの、大調和精神のみ心から外れているものです。
そういう業がある以上は、神様のみ心の中にスッカリのれません。神のみ心にスッキリとつながるのを邪魔する業想念というものを、病気や不幸や災難にして出して消してしまうわけです。
業がある以上はどんなことをしても、それが出てくるわけです。しかし、守護霊、守護神につながり、祈り心で加護を願っていますと、守護霊、守護神が肩替りしてくれるのです。
百ある業想念を九十背負ってくれ、あと十だけ肉体のほうへ出して、肉体は十だけのものを背負っていけばいいようにしてくれるのです。
いっぺんに千だとか万だとかたくさんのものを出したら苦痛が激しくつぶれてしまうから少しずつ出して消してゆく。人間側に力がつけばそれだけのものを出してゆく。
そしてあまり気が付かないうちに出してしまって、苦しみ少なくてこの人生を過ごしてゆけるようになるのです。ですから守護霊、守護神の加護というものは大変なものなのです。
五井先生はこうもおっしゃっています。
消えてゆく姿というのは、自分が消すのではないんですよ。(中略)自分で消せるようならば、みんな悟れて楽なもんですよ。自分で消せないところに、守護霊守護神がいて、神様の愛が本当にそこでわかるのです。この世というものは、自分ではなんにも消せない。自分で消すものは一つもないです。みんな守護霊守護神が消してくれる。

散歩中のストーカー呼ばわりの時に、怒りを感謝に置き換えることが出来たのはこの五井先生の教えが思い出されたからです。だから家に帰るまでの数分、ずっと心の中は神様、守護霊への感謝で満たされていました。

このブログで改めてこのエピソードを紹介しながら思うのは、人生で起こる不幸や不都合の原因は過去の自身の想念、行為にあり、それが自分に戻ってくるという因果の法則の問題であるということ、さらに子孫や被守護者が出来るだけ苦しまないように、痛みが小さくなるように力を尽くしてくださっている守護の神霊の存在がある、ということです。

< p>そして人生の不幸や不都合こそ、幸せや人間としての成長への転換点として真に喜ぶべきものであり、神霊への感謝とともに受け止めねばならないものである、ということです。

守護霊の働き方

五井先生は更に具体的な守護霊の働きをこのようにも教えて下さっています。

いったいどういう風に守護霊が運命を修正してゆくかというと、種々の方法がある。

例えば、転覆した汽車に乗るべきを、忘れ物をして乗り遅れたため、生命の危機を逃れた。

という場合、物を忘れた、この忘れ物に守護霊の働きがあるので、守護霊の念がその人の肉体頭脳に働きかけ、その人の頭の回転を瞬間的に阻止して物を忘れさせるのである。

また他の人を使って、自分の守護する人間を助ける場合もある。例えば、ある人が、何か急に友人Aを尋ねたくなり、別段に用事もないのに、急用でもある気持で、その友人を尋ねる。と、友人A一家は、事業に失敗して、今まさに一家心中の手前であった。驚いたその人はその友人の為に早速一肌脱いでやることになった。この場合、Aの守護霊はAを助けるため、Aと波長の合う友人のある人に思いを送り、Aの家へ引き寄せたのである。この友人なら、Aを救ってくれる、ということを、守護霊ははっきり知っているのである。この二つの例のようなことが、常に人間世界の生活の上に起っているのである。

五井先生は守護の神霊の働きがどのように行われるかの例を上のように紹介され、このようなことが常に人間世界の生活に起こっているともおっしゃっています。それはもう涙ぐましいほどの働きがあると次のようにおっしゃってもいます。

守護霊はその被守護体の眠っている時から醒めて働いている時、休んでいる時、いついかなる時間にも、この人間を守りつづけているのである。そして、この人間の発する悪想念の蓄積を浄めるために、たゆまざる努力をつづけているのである。もっとも、肉体界(現界)の救いとしては、この人間にでき得るかぎりの努力、経験をさせつつ、いざという時に助けるのである。

守護霊は子孫や深い縁のある守護の対象者の真の救われ、魂の進化、成長に必要な努力、経験をさせつつ、見守ってくださっています。お話は続きます。

やっと眠りの世界に肉体が入った時、無心になった肉体脳髄から、悪想念の蓄積(その時々の因縁)を夢として消すことより仕方がない。

そこでこうした人を守るためには、先程の二例のように、他の人に送念して、他の人から注意や、助太刀をしてもらうことにする。この時の相手は、必ず過去世において、守護霊同志、または、肉体人間同志が、因縁浅からぬ者でなければ駄目なのである。

しかし時には、その被守護体の人間が、あまりにも業因縁が深く、迷(無明)で分霊の光をほとんど覆ってしまっている場合には、いかに守護霊が全力を挙げて浄めたり、奔走したりしても、通じない。仕方がないので、守護霊は、守護神に救援を願うのである。

すると守護神はこの願いを聞き入れて、大いなる神の光を、その肉体人間に放射する。この光は業因縁を通して、分霊に通じ、分霊の光の力が増してくる。この時、なんとなくこの肉体人間の心(脳髄)に宗教への関心が湧いてくる。この場合、たんにご利益信心的な心であるかも知れない。それでもよいのである。この人間にとっては、その気持の起ったことが、一歩も二歩もの進歩なのである。その時、守護霊は、その機会を逃がさず、その人間に適当する宗教に、その人間を導くのである。

五井先生は更にこのようようにも仰せです。

(守護の対象者が)苦しくてどうしようもなくなれば、必ず守護霊さんが連れてくるんです。それで消えてゆく姿をやらせるんですよ。消えてゆく姿というのは、自分が消すのではないんですよ。

よく間違えて、自分がいき張って消すんだと思っている。コンチクショウと思って消そうと思うのですが、なかなか消えない。あれ邪魔だから消しちまえ、なんていうのではないのです。自分で消すのはそれは自我です。あるいは自力というのです。

自分で消せるようならば、みんな悟れて楽なもんですよ。自分で消せないところに、守護霊守護神がいて、神様の愛が本当にそこでわかるのです。この世というものは、自分ではなんにも消せない。自分で消すものは一つもないです。みんな守護霊守護神が消してくれる。

たとえば短気の想いがあるとする。これを消さなきや消さなきや、消そうと思っても、思うそばから出てくる。恐怖でも同じです。恐れまい恐れまい、恐怖してはいけない、いけないと思っていると、よけいに恐ろしくなってくる。そういう経験がありますね。

それは自我なんです。力みというんです。よほど強い人をのぞいて、ふつう一般の人では消すことは出来ない。そこで私は、消してゆく姿ではなくて、消えてゆく姿というんです。決して消してゆく姿とはいっていません。消えてゆく姿なのです。

それでもなかなか消えない場合にどうするかをこうも仰せです。

また、ある場合は、守護神の光によって、一挙に幽界に転出してしまうことがある。いいかえれば、急死してしまうことがある。それは、そのほうが、この人間の進歩に都合が良いからである。

厳しいお話ですが、守護される当人に一向に自覚が生じず、これ以上地上にとどまっても進歩がない、運命の修正がままならない場合は、死によって、運命の修正が可能な世界に転出、移行させることもある、ということです。そして、守護霊、守護神への全託と感謝こそが幸福な人生への直道であることを教えてくださいます。

以上のように守護霊は肉体人間と一つになって、人間を善導しているのである。人間が、自己の運命を改善し、幸福になりたいとするならば、ただ、守護霊に自己の運命を委せればよい。守護霊さん、ありがとうございます、守護神さん、ありがとうございます、神様、ありがとうございます、と常に感謝していればよい。

この心が神への全託なのであり、守護霊の活躍を充分にさせる一番よい方法なのである。

この心でいれば、その人の行動はおのずから、調和した整ったものになり、生活は楽しく楽になるに決まっているのである。

今日ここで紹介した自身の体
験からも、これらの五井先生のお話は「その通り」だ、断言できます。また五井先生はもし迷った時は守護霊に尋ねなさい、とおっしゃっています。今日の締めくくりに紹介します。

もし迷う事柄があったら、心の中で守護霊さんを呼びながら、その裁断を願えば、必ずなんらかの形で、その答をしてくれる。それは前に述べたように他の人に逢って、その人の口から聞かされるかも知れぬ。あるいは、ピンと直感的にひらめくかも知れぬ。ただ、この場合、前者なら、最初に逢った人であり、後者なら、最初の直感、第一直感が、その答である。

その答がいかに、現在の自分に都合が悪いように思えても、それは後によくなる方法に違いないのである。それを信じなければならぬ。第二直感で出てくることは業因縁の答であるから、よくよく注意せねばならぬ。

そこで、私は迷った時は氏神様のおみくじを引いたら良い、と思います。またそのようにアドバイスをし、良い結果を得たことがあります。

おみくじは守護霊、守護神への感謝を念じ、「どうか良いアドバイスを下さい」と思いながら引くのです。その場合、内容が大事ですから、吉凶に動じず中身をよく読んでみたらよいのです。そこにヒントがあるはずです。

長くなりましたので、今日はここまでとします。近いうちにこの続きを書こうと思います。

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