至高体験を殺したのはマイクロソフト

至高体験を殺したのはマイクロソフト

丸秘至高体験情報

日本人で、シエラネバダ産の

ネリーランドのアンダラクリスタルを

直接仕入れている業者様は

ほんの数名とも云われています。

なぜ、そんなにもアンダラクリスタルなのか?

をコスミックハートの鈴木美保子さんの

サイトから引用したいのですが

禁止されていますので

簡単に、私が要約いたしますと

日本のレイライン状、パワースポット

日本の山の水源地。

又は最も浄化を必要としている地域に

個人プロジェクトとしてアンダラクリスタルを

寄贈、埋葬している方々(匿名でした)が

地図となって日本列島をつないでいるのです。

そういえば、昨年マーリンアーサーも

福島にクリアのアンダラクリスタル原石を

いくつか寄贈してました。

クリアのアンダラクリスタルが

最も浄化力が高いのです。

アンダラクリスタル自体

かなりお高いものです。

それを個人的なコレクションではなく

日本の主要箇所に、こんな大勢の方々が

寄贈、埋葬しているということに

かなり感動というか、正直驚いたのです。

実は日本だけでなく、世界中の主要な寺院の下に

アンダラクリスタルが埋まっているといいます。

それを、故サイババが祝福したそうです。

(もう戻ってきたかな?)

その時、ネリーランドのネリーさんは

「サイババがそこにいる!」と言ったそうです。

サイババレベルですと

バイロケーションなども可能でしょう。

(同時に違う場所に存在すること)

私の行動はたかが知れていますが

自分のできる範囲で

ご縁のある方に手にとっていただきたい。

まずは体感していただきたいの一心なのです。

アンダラクリスタルが3次元物質として

私やおそらく他の方々が言っている

神秘的な体験

至高体験(自分自身が光であったこと)

に一番近いからです。

それにしても、

なんと日本人は霊性の高い国なのでしょう。

先ずは

スマホやTVの時間を減らしてみませんか。

マスコミの言いなりになってはいませんか。

怖れをあおるようなものを

自分の心眼で見抜いてください。

ニュースのくだらない(語弊があるかもですが)

芸能人のスクープなどの裏には

大切な政治的な動きを隠そうとしています。

はるか昔、エレメンタル存在を肉眼で

見ていた最後の国民は日本なんですよ。

4月セッションスケジュール

アカシックレコードリーディング・チャネリング

西武池袋線(準急1駅5分)

都営大江戸線

地下鉄有楽町線・副都心線

練馬駅徒歩2分

練馬エキチカ・スカイプセッションのみ

実験的に

50%offでのご提供です!

アカシックレコードリーディング・チャネリング

60分 7500円

50分 6500円

プロフェッショナルアカシックリーディング

60分 6000円

50分 5000円

(どちらも延長なし少しでも延長の場合は

5分1000円の追加料金あり)

渋谷、池袋、新宿セッションは通常通り

アカシックレコードリーディング・チャネリング

60分 15000円

50分 12000円

プロフェッショナルアカシックリーディング

60分 12000円

50分 10000円

(どちらも延長5分につき1000円の追加料金あり)

今後は練馬エキチカを中心となります。

★理由は人込みでクオリティの良い

セッションの提供が難しくなったからです。

何卒よろしくお願い申し上げます。

4月セッションスケジュール

練馬エキチカ、池袋、新宿セッションは

お気軽にお問い合わせください。

渋谷セッション 

17日㈬   17:00

24日㈬   17:00

残席3名様となりました!

4月13日㈯ 12:30 現地集合

池袋駅徒歩5分 古城の国のアリス

2時間半枠での開催です。

アカシック・チャネリング・

ライトランゲージ・アンダラクリスタル

スイーツブッフェ開催決定です。

参加費   5555円(ご飲食代込み)

参加人数  残席3名

      お席が6人席のみなので!

        (すでに3人決定)

        

アリスの摩訶不思議ワールドで

朋子のミラクル・シンクロワールドに誘います。

要は、エネルギー交換ってこと。

楽しいことが好きな人来てね!

Facebookから転載させていただきました。

こちらのブッフェ込みで

4月13日㈯ 12:30 現地集合

ご参加者様に後ほど詳細をご連絡致します。

行きたい方はご連絡下さい。

プロフェッショナルアカシックリーディング

お茶会

チャネリング・ライトランゲージ

アンダラクリスタル鑑賞販売会あり

時間は2時間厳守でお願いいたします。

ご参加費  お1人様 5555円(ご飲食代込み)

参加人数  残席3名様(すでに3人決定)

「お問合せ・ご予約」の欄より

注意生まれた時の名前、生年月日

当日連絡先(ケイタイ)

「4月アカシックお茶会・古城の国のアリス」

と記載の上、下記よりお入りください。

  下

★すべての

又はまでご連絡ください。

★入金はセッション日イベント日確定してから

 3日以内にお振込みください。

最近は、遠方の方がセッションに

お越し下さります。

交通事情、時間などを最優先させて

いただきますので事前にお申し出くださいませ。

その際は、1週間前にお申し出ください。

尚多少の時間の調整や

出先などの空き時間もございますので

お気軽にお問合せ下さい。

何卒よろしくお願い申し上げます。

「お問合せ・ご予約」の欄より

注意生まれた時の名前、生年月日

当日連絡先(ケイタイ)

セッション希望日(5候補くらい)

を記載の上下記よりお入りください。

  下

★すべての

又はまでご連絡ください。

★入金はセッション日イベント日確定してから

 3日以内にお振込みください。

★キャンセルポリシー

すべてのセッション、イベントに対しての

一旦振込みました金額についての返金はいたしません。

(後日、練馬駅チカセッションの振り替え可能

イベント振り替え可能、スカイプは随時対応)

リーディング後のご質問は

メールリーディング扱いとなります。


ッション・スケジュール」

の欄をご覧ください。

            

         

      

蝶質問をあらかじめ用意しておくことをおすすめ

 いたします。

蝶アカシックリーディングは

アカシックレコード=宇宙図書館=

宇宙のデータバンクにアクセスして

基本的にクライアント様のご質問に対して

お答えするようなスタンスです。

蝶チャネリングは、クライアント様を前にして

特定の存在に自分から周波数を合わせることです。

(大天使、アセンデッドマスター、宇宙存在など)

蝶アカシックリーディングでわかること

隠された才能

今世に影響を及ぼしている過去世

転居先・健康状態・チャクラのバランス

人間関係の悩み・パートナーシップ・夫婦

子供・職場の人間関係・倦怠期など

仕事関係の悩み・転職・起業・起業女子

モチベーションの維持・適職・これからの展望

恋愛の悩み・遠距離恋愛・中距離恋愛・復縁

同棲・プロポーズ・婚外恋愛・社内恋愛

など

蝶うつ病や、精神疾患で病院に通われて

いる方は、ご遠慮ください

アカシックリーダーは、カウンセラーとは

違い、アカシックレコードから中立に情報を

とってお伝えします

その答えが、時としてクライアント様の

治癒の妨げとなる怖れがございます

(稀に、ショックをおこすということです)

アカシックレコードリーディング

セッションを受ける前は必ずこちらの

注意事項に目を通してセッションに臨んでくださいね★

↓

★アカシックリーディングflumeは

 皆さまのセッション代金の一部を

 保護犬活動の団体に寄付させていただいております。

              ホームページはこちら↓

       

★私はいかなる宗教とも関わりはありません

こちらをクリックしますと11次元エネルギーが

流れるように設定しています

    やじるし

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聖書は本当のところ自慰行為について何と語っているのか?
〜聖さの中で生きたいと渇望しているあなたへ〜

デビッド・カイル・フォスター

人はしばしば、聖書はなぜ自慰行為(マスタベーション)について直接的に語っていないのだろうかと不思議に思っています。
自慰行為は、キリストの体の中で沢山の罪悪感と憶測を引き起こしています。ですから私達は、ギャンブルや喫煙…etcといった事柄に対処するのと同様に、自慰行為が罪なのかどうか考えるために聖書の原則を総括し、判断するようにと委ねられているのです。

聖書の原則

私達の主が教えて下さった聖書の原則をもって始めていきましょう。その原則とはこれです。「誰であっても情欲を抱いて女性を見るものは、すでに心の中で姦淫を犯している。」(マタイ5:27-28)。

誰かとセックスをしているシーンを思い浮かべないで自慰行為(マスタベーション)を行う人が仮にいたとしても、それは極まれです。

それを踏まえるなら、自慰行為は姦淫や同性間の性行為、また人間の頭が思いつく他の性行為の数々と同じくらい悪いものであり、もっと言うならばエペソ5:5、コロサイ3:5、エゼキエル23:49で啓示されている通り、偶像崇拝なのです。
ある意味で、自慰行為は一種の思考ポルノと言えるでしょう。
私達は皆、それが罪であることを知っています。

私達はまた、内におられる聖霊様の内なる証によって罪を知ります。

ただし継続的な反逆によってその証を消していなければの話しです(Ⅰテサロニケ5:19、エペソ4:30参照)。
自慰行為をして罪悪感を持たずに生きている人なんていますか?
自慰行為は罪ではないと自分に言い聞かせている人達でさえ罪悪感を持って生きてます。

さらに聖書は、体は聖霊の宮、神聖な宮であり(Ⅰコリント3:16、Ⅱコリント6:16)、キリストご自身の器官(Ⅰコロサイ6:15-20)であると教えています。
「私達の中におられるキリスト」を売春婦と結んではならないと警告されているなら、なぜ私達は主を私達の思いの中の不道徳な考えや画像に結び付けたいと思うのでしょうか?(Ⅰコリント6:15-17)

聖書はまた、性的不道徳は私達の体にたいする罪だと教えています(Ⅰコリント6:18)。
さらに、Ⅰペテロ2:11は、罪深い欲が私達の魂に戦いを挑んでいると語っています。

とういうことは、自慰行為とそれに伴う不道徳な妄想に携わることによって、私達は自分自身にたいして戦いを挑んでいるのです。
そして、この行為の虜になっている人なら誰でも証言できるように、その戦いは地獄のような苦しみです。

最後に、自慰行為が罪なのかどうか私達が探る時に、しばしば見落とされている非常に重要な聖書の原則がⅠコリント6:12、Ⅱペテロ2:19-20とローマ6:14-23にあります。

なんであれ私達を征服するもの(聖霊様以外のすべてのもの)は、私達に害を及ぼすのです。
要するに「人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。」

貞操の原則

(Ⅰペテロ3:2、黙示録14:4、Ⅱコリント11:2、エペソ5:27、ヨブ31:1、Ⅰテサロニケ4:3-4)

教会史を通して、真剣なクリスチャン達は聖書の貞操の原則によって導かれてきました。
貞操とは、精神的であれ肉体的であれ純潔と性的自制の原則に則って、人生を生きるという考えです。
ある意味、自分自身と他者を尊ぶことです。

そしてそれが、結婚という契約のために健全な性表現を取っておくことを可能とするのです。
また貞操は、キリストと教会の結婚を前もって示し、体現するという人間の性行動の麗しさと神様の目的を実行するということです。

恵みの原則

ここでは、子ども達や思春期の子供達が性欲からではなく、単に自分の体の不思議さにたいする純真な興味から、自分の体に触ることについて言及はしていません。
実は、そのような場合に、「何をやってるのよ!」と厳しい態度を取ると、子どもの思考に病的執着と強迫観念をもたらしてしまう可能性があるのです。
さらに悪いことに、その子どもが両親を尊敬していない場合、密かな反抗への道を作りだす可能性があります。
またそのような場合、好奇心や罪悪感が登場してきます。

私達はこの聖書の原則を覚えとく必要があります。

それは神様の恵みと愛が、不敬虔とこの世の欲にたいしてノーと言うようにと私達を教え諭してていることです(テトス2:11-14、ローマ2:4、5:17、Ⅱコリント5:14)。
結局の所、私達を罪の刑罰だけではなく、罪の力からも救ってくださったのは神様の恵みなのです。

この恵みの原則は、止めようと勇敢に試みたにも関わらず、自慰行為をし続けている成人の信者にも有効です。

主がこの事をはっきりと私に語ってくださった時の事を一生忘れることはありません。
自慰行為を止めることができた!と思ったら、やってしまう。
その繰り返しが続いたある晩、私は自分を責めていました。その時、主がはっきりと私の霊に語られました。
「あなたは、わたし以上に、自分に厳しくし過ぎている!」

それが、毎回失敗する度に自分をいじめるのを止め、自由を見出すために新鮮なアプローチを取ることができるよう恵みが働いた瞬間だったのです。
そのアプローチには、自分の失敗に執着するのではなく、むしろ神様との親密さを増していくことに重点を置くことが含まれていました。

逃れの道


改めることができるように、根となっている罪の問題を知ることは重要です(そのような啓示は、神様と親密に過ごしている時に与えられます)。

これらの1つ、あるいはそれ以上の要塞に気づかない、あるいは手放そうとしないなら、当然、私達は束縛されたままです。
なぜなら引き続きサタンが私達の内に領域を持つからです(ヨハネ14:30)。
それゆえ、この変革のプロセスの大半は、サタンの領域がどこにあるのかを見つけ、神様が与えてくださった手段でその領域を取り除いていくことが伴います。
言い換えるなら、的確に原因となっているものを見出し、それを告白する必要があるということです。

それでは、神様の御前で告白する必要がある、根本的な罪の問題とは何なのでしょうか?

1.不信仰:神様が本当に良いお方であることを疑うこと。
罪を犯すと、その瞬間に、神様が本当に自分のそばにいてくださっているのか、つまり自分ことを気にかけてくださっているのかを疑い始め、それゆえに神様が良いお方なのかを疑うようになります。

イブが神様は自分から良いものを遠ざけているのだと信じ込んでしまった時に、エデンの園で犯した最初の罪を私達は再現しているのです。

多くの人は心ではなく、知性で「信じている」だけなので、神様の約束の現れを見逃してしまうのです。
Ⅱペテロ1:3-11、詩篇16:7-8、ローマ8:5-14、ガラテヤ5:16といったみことばを思い巡らし、黙想し、心で信じてください。

実のところ、神様は独身者のためにさえ、自慰行為よりもはるかに素晴らしいものを用意しておられるのです。
神様は、人の性的な一面に満足感と完全さを与える、より次元の高いものを用意しておられます。
この真理を理解することは、罪を捨て去るよう説得されている私達にとって、非常に効果があります。

2.偶像崇拝:エペソ5:3-5とコロサイ3:5は、性的不品行は一種の偶像崇拝であるとはっきり語っています。
いかなる神を崇拝するのと同様、自慰行為には、それ独自の崇拝対象と儀式(決まりきったやり方)があります。ほぼ恍惚状態のような至高体験へと人を誘う、時間、場所、きっかけ、決まった道具、決まったやり方です。
そのような儀式的な偶像崇拝を告白し、それら様々な要素を取り除き、捨て去ることが、その力が打ち砕かれるのを見る秘訣なのです。

さらに、自慰行為はしばしば、特に大きな痛みを通っている人達にとって、命と平安の源となってしまっています。

ある意味では、それが神様の代わりとなってしまっているのです。
聖霊様こそが自由を与えてくださるお方であるべきなのに、多くの人達は、「自分の人生で一番の平安の源となっているもの、自分が壊れてしまわないように保ってくれているもの」無しで生きるようにと求められていることに気がつき、恐怖でひるんでしまうのです。
その習性が彼らの意識にしっかりと染み付いてしまって、それ無しの生活を想像することが不可能になってしまっています。
そうであったとしても彼らは自身のトラウマが癒されることを求める必要があるのです。
それは、神様への信頼を増すうえで不可欠です。

3.反抗心:時に、私達はただ単に、聖霊様の御声に聞き従うことを拒んだり、あるいは聞こえない振りをします。

しばしば自慰行為という自己療法は、私達が必要とした時にそばにいてくださらなかった(と私達が感じているだけですが)神様にたいする怒りと不信感を覆い隠しているのです。

しばしば子供時代に、私達の要求に応じて神様が私達を助け出したり、変えてくださらないと、私達は心の中で神様を裁き、怒りの根を伸ばしていってしまうのです。
これらは告白と悔い改めによって取り除かれる必要があります。
つまり、私達が、自分が反逆していたことを認め、そして神様を愛し、(真実な愛の土台として与えられた)自由意志の必要性を信じるという両方の選択をするなら、神様が完全な愛と高潔さをもって働いてくださるのです。
4.罪を愛すること:これは、しばしば大量の言い訳の下に埋められてしまっています。
「私達は罪を犯す必要がある」、「自分には罪を犯す権利がある」、「これは今、大変な試練を通っている私の事を考慮して神様が最低限許してくださるものだ」と言い張るのです。

しかし実のところ、私達は神様を愛する以上に、自慰行為を愛しているのです。
これを変えるためには、いかにして神様をさらに愛するかを理解する必要があります。

神様にたいするより大きな愛は、神様を深く知るために時間をかけた結果、生じるのです。

礼拝がライフスタイルとなることが重要です。悪魔の領域はそれには耐えることができないのです。

十字架について思い巡らすことも、重要な鍵です。

主の苦しみにたいする感謝が深くなるにつれ、私達はより一層、進んで「私達を最も魅了してきたもの(ある聖歌の歌詞)」を投げ捨てるようになります。
誘惑された時は、自分にただこう尋ねればいいのです
「今、私は誰を愛しているのだろうか?
今、自分を誘惑しているこの罪だろうか?
それとも、私のために十字架で死なれる程私を深く愛してくださったお方だろうか?」
そうするなら、選択がより一層簡単になっていきます。

5.自己欺瞞(自分を欺くこと):長い年月の間に、私達は自分自身を欺き、本当は手放すつもりが全くないものから自分は自由になりたいんだと信じ込ませる名人となってしまっていたことに気がつくのは屈辱的です。

心の中に居座っている罪を捨て去ることを拒んでいるのに、敬虔な事を語り、敬虔な事を考える。
そのようにして私達は、玉葱のように、自己欺瞞という皮で自分を覆ってしまっているのです。

私達は神様の御前で今も変わらずある不純な動機、心にある邪悪さ、そして神様から「聖くなりたい」という真心からの願いを与えてもらう必要がある事を認めなければなりません。
ユダ24節、詩篇37:23-24、詩篇55:22で語られているように、私達が心から神様に願っている限り、私達をつまずきから守ってくださるのは神様ご自身なのです。

6.自分の力で正しくなろうとすること:私達の多くが、分別のある人達でさえ、絶えずこの罠に落ちてしまっています。

「恵みのみ」、「キリストなしでは何もすることができない」(ヨハネ15:5参照)と口では語りながらも、私達の堕落した性質はひっきりなしに私達の思いを誘惑して、「神様の愛を勝ち取らなければならない。神様に受け入れられるためには、もっと正しく生きなければ」と信じさせようとするのです。

幾度も、私達は肉欲の恥を苦しめ、主が私達のために十字架で勝ち得てくださった御国の人生を生きる事ができるように神様に完全に頼りきる代わりに、自分の力で聖くなろうとするのです。

自慰行為や様々な罪のとりことなる背後には、ここで全てをリストするのは不可能な程多くの考えられる要塞があります。
だからこそ、神様との親密な関係と神様からの啓示を追い求め、主が語られることを行う事が、本当のところ逃れの道なのです。
そうするなら後は、神様が聖霊様のささやきと力によって、あなたを真の解放へと導いてくださいます。

デイビッド・カイル・フォスター博士(トリニティ―神学校にて神学修士号と神学博士号を修得)
Transformed Into His Image とLove Hungerの著者。Pure Passion Mediaの創設者兼監督。

Reprinted with permission from Charisma. 
Copyright Charisma Media, USA. All rights reserved.

世界三大至高体験がついに決定

魔とは「間」のこと。

魔が差したという言葉を、犯罪行為を行った人から聞くけれど、

そこには魔が入り込める余地のある「間」があるということ。

自分がまともで、

常識がある人間で、

ぜったいに間違うことはないと思っていても。

そこにほんのすこしの「間」があるなら、

いつでもそこに魔があるのだと思っていた方がいい。

禅などでは、参禅中に至高体験が訪れたり、圧倒的な視覚的イメ-ジがやってきたとすると、

それは「魔境である」といい、師にぶんなぐられる。

これはなぜなのか?

至高体験そのものが魔なのではなく、

至高体験をしているその人のなかに「間」があるなら、

その体験を本質的な成長へと活かすことができなくなり、

至高体験によって抑圧された自己愛や傲慢さがあふれだすこととなるために、

それを「魔境」と呼ぶのだ。

究極のところ誰でも至高体験は可能だ。

人里離れた寺へ行き、一か月ほど決められたプログラムをこなせば、ほぼ誰でも「覚醒した」と思えるような至高体験を得ることはできる。

しかし本人のなかに「間」があるなら、それは定着しない。

定着しないどころか、自己愛や傲慢さに囚われ、その後の人生のプロセスのなかで、致命的な欠損をもたらす場合もありうる(もちろんすべてがそうだとはいわないけれど)。

さて。

この「間」とはなんだろう?

たぶん一番わかりやすくいうなら

「ズレ」

のことだ。

言っていることとやっていることが違うとわかっていながらも

ひっこめることが出来ずにいるときにやってくるズレ。

誰かをとても愛し、欲したとき。

ようやくその人と結ばれたとき。

どこかでふっと感じるズレ。

求めているものが現実になったときに

どこかでふっと冷めてしまう温度のズレ。

夫婦関係のなかでのほんのわずかなズレ。

この「ズレ」があるとき、そこに「間」があり、「魔」が入ってくる。

最初はとても小さなズレ・間の感覚。

やがてそれがだんだん大きくなってきて、

決定的になってきたときに、

そこに魔を基にした「善悪」が展開される。

最初はちいさな溝だったはずの人間関係のズレが

巨大な谷底ほどの間に広がっていく。

そしてそこに大きな「魔」が入る。

一度、魔に取りつかれてしまうと

本人のなかでの「善」が「悪(他者へ支配)」となっていることに気が付かなくなり、

破滅的な場所まで突き進むことになる。

大きなところでは戦争もまったく同じこと。

最初は小さなズレ・間だったものがやがて国家的な巨大な谷間にまでひろがってしまう。

そして強力な「魔」にとらわれ、お互いの正義の元に、支配がはじまる。

小さなところでは仕事選びなど。

最初はこれくらいのズレは我慢できると思っていたものがだんだん広がり、自分のやりたいことと求められていることが大きく隔たる間にまでひろがり、そこに「魔」が入る。魔は言う。止まることは死ぬことと同じだと。

そして魔はその人をむしばみ、うつや自殺へまで追い込んでしまう。

仏教やエソテリシズムの教えでは

もし人が全的な成長を遂げていくなら、

「間」に関する自己認識を前提にすることが大きなポイントであると説く。

現実的なズレを修整することが重要なのではなく、

ズレを認識し、いまズレている、ここに間があるのだと、初動のときに気が付くこと。

初動でズレに気が付いていれば、それは「魔」をはらうこことと同じだ。

しかし「甘い誘惑」にとらわれたとき。

抑圧された自己愛や傲慢さが

その「ズレ」を「なかったこと」にしてしまう。

本当はだれでも初動で気が付いてるはずなのに。

そして小さなズレから、大きな間が生まれ、そこに「魔」が巣くうのだ。

魔とは外にある力ではない。

あなたのなかにあるズレ・間がやがて大きくなったときに、そこに魔が生まれる。

初動でズレ・間に気づくこと。

これが「魔」をはらう秘訣。

追。

私もたくさんのズレから、たくさんの「間」をもってきました。

そしてたくさんの「魔」にとらわれ、落ちてきました。

けれどいまわかるのは、すべて自分のなかの「間」をごまかすことから生まれた事象であり、自分自身の内面の現れそのものだということ。

初動で魔をはらうこと。

古来から仏教でいわれるこのことの大切さは、もちろんずっと前から頭では理解できていたのですが、ようやく本当に理解ができるものとなりました。

けれど人間はどこまでも間違うもの。

究極のところ、ズレはだれにでもあるし、間がないひとなどいない。

つまり魔を持たない人もいない。

けれどそのまま落ちていくのか、それとも自分自身のちいさなズレに気が付き、本当に自分がやりたかったことは何なのかをもう一度見直すことが出来るのが、人間です。

間は、魔がはいるものでもあり、いつでも自分で自分を変えることが出来るという大切な「間」でもあるのです。

人間という言葉に「間」が入っているのは、何にでもなりうる間という「可能性の矢」をすべての人が持っているということでもあるのでしょう。

4月1日撮影。息子と父。

●個人セッション 4月満席 だだいま5月受付

・アカシックレコードリーディングセッション
・リリ-スセッション

2019年個人セッションスケジュ-ルは

● ブッダプログラムワ-クショップ&リトリ-ト

・オーストラリアゴ-ルドコースト「星々の記憶を辿るリトリ-ト」 残席わずか

・エジプト「大ピラミッドでの儀式とイシス・オシリス統合の7日間」 残席わずか

詳細は

●ブッダプログラムスク-ル

・自己認識クラス          5月11日開講 残席わずか
・弥勒力クラス           8月24日開講 
・アカシックリ-ダ-養成クラス 8月3日開講

詳細は


至高体験 関連ツイート

【今日のお題:『PSO2』連動企画!
あなたの2019年の願い事を教えて!】
至高のもふもふ体験したいです
https://t.co/iCQzeE0XbL #PSO2esお題
叡王戦
理想
「将棋界序列3位を決める至高の戦いを視聴者との双方向により完全生中継」
現実
「A級17期の中堅棋士の足裏マッサージを見せつけられる」(笑)

動画をどうぞ

【第4期叡王戦七番勝負 第1局】三浦弘行九段 台湾式マッ… https://t.co/WMfZWlNKAg

@akb603 あの部屋で金蔵に怒られるという至高の体験! https://t.co/npABJoJbpw
@__mioxox901 リプライありがとうございます。そうですね、まずファーストタッチはがっしりとしていて程よい重圧がありましたね。程よく筋肉のついた尻と太ももはいすとしては至高でしたね。私のいす生でこんな貴重な体験ができるとは… https://t.co/YV1ykZ4ItN

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