至高体験のあまりの凄さに戸惑いを隠せない

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聖書は本当のところ自慰行為について何と語っているのか?
〜聖さの中で生きたいと渇望しているあなたへ〜

デビッド・カイル・フォスター

人はしばしば、聖書はなぜ自慰行為(マスタベーション)について直接的に語っていないのだろうかと不思議に思っています。
自慰行為は、キリストの体の中で沢山の罪悪感と憶測を引き起こしています。ですから私達は、ギャンブルや喫煙…etcといった事柄に対処するのと同様に、自慰行為が罪なのかどうか考えるために聖書の原則を総括し、判断するようにと委ねられているのです。

聖書の原則

私達の主が教えて下さった聖書の原則をもって始めていきましょう。その原則とはこれです。「誰であっても情欲を抱いて女性を見るものは、すでに心の中で姦淫を犯している。」(マタイ5:27-28)。

誰かとセックスをしているシーンを思い浮かべないで自慰行為(マスタベーション)を行う人が仮にいたとしても、それは極まれです。

それを踏まえるなら、自慰行為は姦淫や同性間の性行為、また人間の頭が思いつく他の性行為の数々と同じくらい悪いものであり、もっと言うならばエペソ5:5、コロサイ3:5、エゼキエル23:49で啓示されている通り、偶像崇拝なのです。
ある意味で、自慰行為は一種の思考ポルノと言えるでしょう。
私達は皆、それが罪であることを知っています。

私達はまた、内におられる聖霊様の内なる証によって罪を知ります。

ただし継続的な反逆によってその証を消していなければの話しです(Ⅰテサロニケ5:19、エペソ4:30参照)。
自慰行為をして罪悪感を持たずに生きている人なんていますか?
自慰行為は罪ではないと自分に言い聞かせている人達でさえ罪悪感を持って生きてます。

さらに聖書は、体は聖霊の宮、神聖な宮であり(Ⅰコリント3:16、Ⅱコリント6:16)、キリストご自身の器官(Ⅰコロサイ6:15-20)であると教えています。
「私達の中におられるキリスト」を売春婦と結んではならないと警告されているなら、なぜ私達は主を私達の思いの中の不道徳な考えや画像に結び付けたいと思うのでしょうか?(Ⅰコリント6:15-17)

聖書はまた、性的不道徳は私達の体にたいする罪だと教えています(Ⅰコリント6:18)。
さらに、Ⅰペテロ2:11は、罪深い欲が私達の魂に戦いを挑んでいると語っています。

とういうことは、自慰行為とそれに伴う不道徳な妄想に携わることによって、私達は自分自身にたいして戦いを挑んでいるのです。
そして、この行為の虜になっている人なら誰でも証言できるように、その戦いは地獄のような苦しみです。

最後に、自慰行為が罪なのかどうか私達が探る時に、しばしば見落とされている非常に重要な聖書の原則がⅠコリント6:12、Ⅱペテロ2:19-20とローマ6:14-23にあります。

なんであれ私達を征服するもの(聖霊様以外のすべてのもの)は、私達に害を及ぼすのです。
要するに「人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。」

貞操の原則

(Ⅰペテロ3:2、黙示録14:4、Ⅱコリント11:2、エペソ5:27、ヨブ31:1、Ⅰテサロニケ4:3-4)

教会史を通して、真剣なクリスチャン達は聖書の貞操の原則によって導かれてきました。
貞操とは、精神的であれ肉体的であれ純潔と性的自制の原則に則って、人生を生きるという考えです。
ある意味、自分自身と他者を尊ぶことです。

そしてそれが、結婚という契約のために健全な性表現を取っておくことを可能とするのです。
また貞操は、キリストと教会の結婚を前もって示し、体現するという人間の性行動の麗しさと神様の目的を実行するということです。

恵みの原則

ここでは、子ども達や思春期の子供達が性欲からではなく、単に自分の体の不思議さにたいする純真な興味から、自分の体に触ることについて言及はしていません。
実は、そのような場合に、「何をやってるのよ!」と厳しい態度を取ると、子どもの思考に病的執着と強迫観念をもたらしてしまう可能性があるのです。
さらに悪いことに、その子どもが両親を尊敬していない場合、密かな反抗への道を作りだす可能性があります。
またそのような場合、好奇心や罪悪感が登場してきます。

私達はこの聖書の原則を覚えとく必要があります。

それは神様の恵みと愛が、不敬虔とこの世の欲にたいしてノーと言うようにと私達を教え諭してていることです(テトス2:11-14、ローマ2:4、5:17、Ⅱコリント5:14)。
結局の所、私達を罪の刑罰だけではなく、罪の力からも救ってくださったのは神様の恵みなのです。

この恵みの原則は、止めようと勇敢に試みたにも関わらず、自慰行為をし続けている成人の信者にも有効です。

主がこの事をはっきりと私に語ってくださった時の事を一生忘れることはありません。
自慰行為を止めることができた!と思ったら、やってしまう。
その繰り返しが続いたある晩、私は自分を責めていました。その時、主がはっきりと私の霊に語られました。
「あなたは、わたし以上に、自分に厳しくし過ぎている!」

それが、毎回失敗する度に自分をいじめるのを止め、自由を見出すために新鮮なアプローチを取ることができるよう恵みが働いた瞬間だったのです。
そのアプローチには、自分の失敗に執着するのではなく、むしろ神様との親密さを増していくことに重点を置くことが含まれていました。

逃れの道


改めることができるように、根となっている罪の問題を知ることは重要です(そのような啓示は、神様と親密に過ごしている時に与えられます)。

これらの1つ、あるいはそれ以上の要塞に気づかない、あるいは手放そうとしないなら、当然、私達は束縛されたままです。
なぜなら引き続きサタンが私達の内に領域を持つからです(ヨハネ14:30)。
それゆえ、この変革のプロセスの大半は、サタンの領域がどこにあるのかを見つけ、神様が与えてくださった手段でその領域を取り除いていくことが伴います。
言い換えるなら、的確に原因となっているものを見出し、それを告白する必要があるということです。

それでは、神様の御前で告白する必要がある、根本的な罪の問題とは何なのでしょうか?

1.不信仰:神様が本当に良いお方であることを疑うこと。
罪を犯すと、その瞬間に、神様が本当に自分のそばにいてくださっているのか、つまり自分ことを気にかけてくださっているのかを疑い始め、それゆえに神様が良いお方なのかを疑うようになります。

イブが神様は自分から良いものを遠ざけているのだと信じ込んでしまった時に、エデンの園で犯した最初の罪を私達は再現しているのです。

多くの人は心ではなく、知性で「信じている」だけなので、神様の約束の現れを見逃してしまうのです。
Ⅱペテロ1:3-11、詩篇16:7-8、ローマ8:5-14、ガラテヤ5:16といったみことばを思い巡らし、黙想し、心で信じてください。

実のところ、神様は独身者のためにさえ、自慰行為よりもはるかに素晴らしいものを用意しておられるのです。
神様は、人の性的な一面に満足感と完全さを与える、より次元の高いものを用意しておられます。
この真理を理解することは、罪を捨て去るよう説得されている私達にとって、非常に効果があります。

2.偶像崇拝:エペソ5:3-5とコロサイ3:5は、性的不品行は一種の偶像崇拝であるとはっきり語っています。
いかなる神を崇拝するのと同様、自慰行為には、それ独自の崇拝対象と儀式(決まりきったやり方)があります。ほぼ恍惚状態のような至高体験へと人を誘う、時間、場所、きっかけ、決まった道具、決まったやり方です。
そのような儀式的な偶像崇拝を告白し、それら様々な要素を取り除き、捨て去ることが、その力が打ち砕かれるのを見る秘訣なのです。

さらに、自慰行為はしばしば、特に大きな痛みを通っている人達にとって、命と平安の源となってしまっています。

ある意味では、それが神様の代わりとなってしまっているのです。
聖霊様こそが自由を与えてくださるお方であるべきなのに、多くの人達は、「自分の人生で一番の平安の源となっているもの、自分が壊れてしまわないように保ってくれているもの」無しで生きるようにと求められていることに気がつき、恐怖でひるんでしまうのです。
その習性が彼らの意識にしっかりと染み付いてしまって、それ無しの生活を想像することが不可能になってしまっています。
そうであったとしても彼らは自身のトラウマが癒されることを求める必要があるのです。
それは、神様への信頼を増すうえで不可欠です。

3.反抗心:時に、私達はただ単に、聖霊様の御声に聞き従うことを拒んだり、あるいは聞こえない振りをします。

しばしば自慰行為という自己療法は、私達が必要とした時にそばにいてくださらなかった(と私達が感じているだけですが)神様にたいする怒りと不信感を覆い隠しているのです。

しばしば子供時代に、私達の要求に応じて神様が私達を助け出したり、変えてくださらないと、私達は心の中で神様を裁き、怒りの根を伸ばしていってしまうのです。
これらは告白と悔い改めによって取り除かれる必要があります。
つまり、私達が、自分が反逆していたことを認め、そして神様を愛し、(真実な愛の土台として与えられた)自由意志の必要性を信じるという両方の選択をするなら、神様が完全な愛と高潔さをもって働いてくださるのです。
4.罪を愛すること:これは、しばしば大量の言い訳の下に埋められてしまっています。
「私達は罪を犯す必要がある」、「自分には罪を犯す権利がある」、「これは今、大変な試練を通っている私の事を考慮して神様が最低限許してくださるものだ」と言い張るのです。

しかし実のところ、私達は神様を愛する以上に、自慰行為を愛しているのです。
これを変えるためには、いかにして神様をさらに愛するかを理解する必要があります。

神様にたいするより大きな愛は、神様を深く知るために時間をかけた結果、生じるのです。

礼拝がライフスタイルとなることが重要です。悪魔の領域はそれには耐えることができないのです。

十字架について思い巡らすことも、重要な鍵です。

主の苦しみにたいする感謝が深くなるにつれ、私達はより一層、進んで「私達を最も魅了してきたもの(ある聖歌の歌詞)」を投げ捨てるようになります。
誘惑された時は、自分にただこう尋ねればいいのです
「今、私は誰を愛しているのだろうか?
今、自分を誘惑しているこの罪だろうか?
それとも、私のために十字架で死なれる程私を深く愛してくださったお方だろうか?」
そうするなら、選択がより一層簡単になっていきます。

5.自己欺瞞(自分を欺くこと):長い年月の間に、私達は自分自身を欺き、本当は手放すつもりが全くないものから自分は自由になりたいんだと信じ込ませる名人となってしまっていたことに気がつくのは屈辱的です。

心の中に居座っている罪を捨て去ることを拒んでいるのに、敬虔な事を語り、敬虔な事を考える。
そのようにして私達は、玉葱のように、自己欺瞞という皮で自分を覆ってしまっているのです。

私達は神様の御前で今も変わらずある不純な動機、心にある邪悪さ、そして神様から「聖くなりたい」という真心からの願いを与えてもらう必要がある事を認めなければなりません。
ユダ24節、詩篇37:23-24、詩篇55:22で語られているように、私達が心から神様に願っている限り、私達をつまずきから守ってくださるのは神様ご自身なのです。

6.自分の力で正しくなろうとすること:私達の多くが、分別のある人達でさえ、絶えずこの罠に落ちてしまっています。

「恵みのみ」、「キリストなしでは何もすることができない」(ヨハネ15:5参照)と口では語りながらも、私達の堕落した性質はひっきりなしに私達の思いを誘惑して、「神様の愛を勝ち取らなければならない。神様に受け入れられるためには、もっと正しく生きなければ」と信じさせようとするのです。

幾度も、私達は肉欲の恥を苦しめ、主が私達のために十字架で勝ち得てくださった御国の人生を生きる事ができるように神様に完全に頼りきる代わりに、自分の力で聖くなろうとするのです。

自慰行為や様々な罪のとりことなる背後には、ここで全てをリストするのは不可能な程多くの考えられる要塞があります。
だからこそ、神様との親密な関係と神様からの啓示を追い求め、主が語られることを行う事が、本当のところ逃れの道なのです。
そうするなら後は、神様が聖霊様のささやきと力によって、あなたを真の解放へと導いてくださいます。

デイビッド・カイル・フォスター博士(トリニティ―神学校にて神学修士号と神学博士号を修得)
Transformed Into His Image とLove Hungerの著者。Pure Passion Mediaの創設者兼監督。

Reprinted with permission from Charisma. 
Copyright Charisma Media, USA. All rights reserved.

至高体験について押さえておくべき3つのこと

新しい年、2019年が始まりました。

本年もブログ「自分教ガイド」をよろしくお願いいたします。

昨年はやや更新不足だったこのブログですが、今年は初心に戻って積極的に更新していくつもりです。また内容の方もヌーソロジーを中心としつつ、そこに自分教ガイド・とうしん独自の観点から、読者の皆さんがそれぞれの「自分教」を確立できるように、より実践的なものを多く発信していきたいと思います。

さて新年最初のテーマは、『善悪観念からの卒業』です。私自身はクリスチャン出身ということもあって、特定の宗教観念とか、特定の信仰団体や信念体系に囚われた経験があり、そのことによる功罪をいやというほど体感してきました。

本日の記事は、主に宗教がらみの苦い経験を引きずっている人向けです。しかし宗教とは無縁の生活をして来た方であっても、何らかの信念に囚われたことはあるでしょうから、それぞれの立場にあてはめて読んでみて下さい。

先週にほぼ書き上げた記事ですが、かなり長くなりましたので、これから3回に分けてアップしたいと思います。

それでは早速始めましょう。

『善悪観念からの卒業』全3回シリーズ
第1回テーマ:神と悪魔は表裏一体

シリーズ第1回目は、『神と悪魔は表裏一体』というお話をしたいと思います。

いきなりこんな事を言っても拒絶か無視されることは分かっています。神を信仰してきた宗教経験者にとって、信仰生活での尊い経験や美しい記憶、信じていた教祖や教団仲間達への思い入れなどが複雑に絡む問題ですから、ことはそう単純ではないでしょう。それゆえ、まずは事実関係からクールにせめてみたいと思います。

●大病院を支えているのはガン患者

大病院を支えているのはガン患者・・・例えば抗がん剤の価格はピンからキリまでありますが、昨年ノーベル賞で有名になった「オプシーボ」は100mgで73万円、1gなら730万円です。もちろん患者には自己負担3割に高額療養費などで支出は抑えられますが、公的保険から支払われる費用で病院と製薬会社は儲かります。人工透析患者一人あたり年間500万円の売上げを病院にもたらすそうです。日本の医療費は2015年度で約42兆3644億円。40兆を超える医療費を病院関連で分け合っています。

病気やケガなどが病院を支えている。これはそのまま精神世界、とくに宗教団体というシステムにも言えることではないでしょうか。

宗教で言えば、悩み苦しみ、様々な問題や葛藤が宗教を支えています。宗教に一番利益をもたらし、宗教を根底で支えているのは、人間に苦しみを与える存在、つまり悪魔なのです。これは事実です。このことは冷静になって向き合う必要があると思います。

悪魔が宗教を支えている。悪魔がいなければ宗教は成立できない。救い主も教団組織も、全ては悪魔との協働によって維持されています。「聖なるもの」を求める欲望が実はどれほど「汚れているもの」なのか、一度そのことを冷静に見つめる必要があります。

●歴史的事実をみても・・・宗教が見せる排他性と熾烈な争い

宗教は多くの血を流してきました。それも殉教の血という美しいものだけではありません。征服・殺戮の血をたくさん流してきたのです。例えばキリスト教では中世・十字軍によるエルサレムでの殺戮。ユダヤ人・アラブ人という理由だけで一般市民・女性子供ら数十万人を虐殺し、十字軍の兵士は返り血を浴びたまま神に歓喜の祈りを捧げました。そしてアフリカ大陸の征服と搾取、南北アメリカ大陸に渡っての原住民の虐殺と搾取にも宗教がからんでいます。

日本においても豊臣秀吉によるキリスト教禁止の理由の1つに、ポルトガル宣教師による日本人奴隷の輸出がありました。いろんな説が入り乱れていますが、数十万人が奴隷として売られていったという文献もあります。いまでもポルトガルやスペインには日本人の血を受け継ぐ人が沢山います。とにかく当時の西欧支配者の精神性にキリスト教的価値観から来る優越感と差別があったことは間違いありません。有色人種や土俗宗教をとことん野蛮なものとして見下していたのです。

宗教は権力、排他性・独善性、人種差別など数々の問題をもたらします。それはキリスト教など一神教にだけ見られるものではなく、仏教の歴史にも見られます。これは何故でしょうか。

●宗教は善悪観念を持つ

過去宗教が残した多くの課題を解決するべく、現代に入り新しい宗教が多数登場しました。いわゆる新興宗教の数々。しかしながら、それら新興宗教が人類の課題を解決したとは到底思えません。むしろ新たに多くの問題と混乱を巻き起こしています。信じて裏切られた人も多いでしょう。信じ切れなかった挫折感を引きずる問題もあります。いずれにせよ、幸福を実現するはずの宗教が、不幸と悲劇を産み出しているという事実・・・これは経験者には分かる、と思います。

なぜそのような事になってしまうのでしょうか。本日のテーマである「神と悪魔は表裏一体」とは、その理由を端的な言葉で言い表しています。

宗教は、かならず善悪観念を持っています。そこには悪魔の存在が出てきます。その悪魔との関係において原罪や堕落、そして救済の概念があります。これはキリスト教系でなくても、大抵の宗教においては、善悪の分離闘争、つまり「善の主体である神」と「悪の主体である悪魔」というような二元闘争物語があるのです。善悪二神と言えば古代宗教であるゾロアスター教が有名ですが、古代ゾロアスター教から今日に至るまで、この二元闘争物語は続いているのです。

ところで本来の神とは、悪を認めないほどの絶対性があるのではないでしょうか。なぜなら本来の神は「絶対善」だからです。信仰者ならこの事に異論は無いはず。神学的にもこれは正しい解釈です。絶対善である神が対象とするものはすべて善となります。それ故、悪とは神の対象にならない存在なのです。分かりすく言うと、本来の神は悪を完全に無視するはずです。

これが神を信仰する宗教に入ると、必ずや善悪闘争物語の中に巻き込まれます。神の意図に反して悪魔が大活躍するのです。その理由は「罪観」にあります。

これまた多くの宗教に共通ですが、それは「悪の責任が人間にある」という何らかの罪観があるのです。これによって人間にとんでもない重責が押しつけられます。人間はここから善悪分離の
性的分裂症という不治の病にかかり、宗教という病院から一生、さらには死後の世界までも逃れられない状態に落とされるのです。

この状況は、先にあげた病気と病院の関係に似ています。病院は病気を治したい。でも病気が病院を支える。医者と患者の関係。病院を支えているのは患者。何か同じ構造があると思いませんか。

(※誤解しないで頂きたいのですが、生命の現場・限界状況の中で日々格闘されている医療関係者をディスるつもりは全くありません。それどころか、私は医療関係者に対しては最大級のリスペクトを持っています。ただただ、頭が下がる思いです。私がここで問題にしたいのは「構造」です。人間が持っている限界構造。この閉塞状況を突破したいという意図だけなのです。)

病院が病気を必要とするように、宗教には「罪」が必要なのです。罪がなければ宗教は成り立ちません。しかしながら、神とは本来、罪とは全く関係がありません。つまり、罪を扱う場所と神を扱う場所が同じにはならないのです。これは困った。そこで「罪の主体」であるもう1つの神、つまり悪魔が必要になるのです。これが宗教の構造です。

まとめると、何らかの神を信仰する宗教は、実際には悪魔の存在を同時に必要とし、神と悪魔の二神論となって、人間を善悪の分離・葛藤状態に閉じ込める。二元論状態です。そして善悪分離というのは、実際には霊と肉の分離、心身の分離を引き起こします。理想と現実の葛藤状態です。この二元論闘争状態が、宗教の統治にとって根本的に必要なものとなります。

このような善悪二元闘争を必要とする精神を私は「一神教精神」と呼んでいます。一神教ではない、むしろ多神教であるという宗教があったとしても、そこに「善悪観念」がある以上は「一神教精神」の範疇にあるのです。そうではないでしょうか。

●新しい元号スタート、いよいよ自身の善悪闘争を終わらせよう

宗教は必ず善悪観念をもつ。神を信仰するということは、その裏に悪魔の存在を必要とする。そんな神を信仰する人間は、神と悪魔の善悪二神によって心身分離し、慢性的葛藤状態に陥る。このような善悪二神闘争をもたらす精神が「一神教精神」。その意味で、いかなる宗教も一神教精神の範疇にあると言える。

一神教精神は「善悪二神」という振り子を作り出すのです。本日のテーマである「神と悪魔は表裏一体」というのは、この振り子としての「善悪二神」のことです。

「神様が実は悪魔と同じだった」などと言われたら、信仰心のある人が反発するのは当たり前です。でもそれは振り子としての「善悪二神」のことであって、心の美しい皆さんが、愛し、信じ、求めて来た「本来の神様」のことではありません。そのような神様は皆さんの心の投影なのです。皆さんの美しい心が、それを表現しているのです。その神様は皆さんの心の中にいるのです。

皆さんの心の中にある「神様」の登場を阻んでいるのが、外側から圧力をかけてくる一神教精神なのです。本来は、神(カミ)+我(ガ)=鏡(カガミ)として、「完全なる鏡認識」のもとに神人合一があるということを以前にお伝えしました。一神教精神はその鏡を割って「主体vs客体」の対象認識をもたらし、神と我を分離し、外側に神を祀らせようとします。それを元に戻し、鏡認識を取り戻す必要があります。

鏡認識に至れば、原罪論などもおかしな話であるということが分かるのです。罪を語るものは、罪自身なのです。いわゆる「魔釣り」ですね。正神をたてまつる「祀り」に対して、魔を引き釣り出す「魔釣り」。「まつり」には2種類ある、というのが日月神示関連でよく言われます。

「悪魔」や「罪」というものは、人の心にある魔を釣り上げる為の概念。清水で油汚れを落とせないように、油には油と同じものをあてなければなりません。それと同じ。鬼をみるものは鬼であり、仏をみるものは仏であると。ここに最後の「一厘の秘密」が関係しています。

そして神人合一する鏡認識においては、神と私は「一対一の関係」となります。この関係こそが真の一神教であり、偶像崇拝という「幅認識」を避ける、純粋な「奥行き認識」の一神教である、と私は本に書きました。そして、それぞれが神人合一して「自分自神」なのですから、多神教でもあります。「一神教即多神教」の世界、それが「和多志」の世界です。これがスピリチュアルで言われるムーの記憶であり、縄文、古代日本精神です。

「和多志」とは「私」の古語。この語の中に古代日本精神、日本語の精神がよく現れています。

ところで今年は新天皇による新元号スタートの重要な節目。前回の昭和から平成への移行時には「東西冷戦の終結」がありました。それでいくと、今回の移行時には「南北冷戦の終結」があると予想されます。それは朝鮮半島の南北統一かも知れません。(※現在、北主導の統一になる可能性がまことしやかに囁かれていますね) 

しかし、そのような外側のことよりも、私たちは自身の内側の南北冷戦を終結しなければなりません。すなわち、本日一貫して語ってきている「神と悪魔による茶番の善悪闘争」を各自がそろそろ終わらせる時が来たのです。

●最後に・・・私たちが行くのは第4番目の道である

最後にシュタイナーの霊智をかりて、神や悪魔の問題をとうしん流にまとめてみます。

まず3つの道があります。

1.唯物論の道
すべて物質、神や霊など存在しないという立場。悪としては「アーリマン」。

2.二元論の道
霊と物質の分離、二元。終わりなき二元闘争におかれる立場。悪としては「一神教精神・ヤハウェ」。

3.唯心論の道
すべて霊、物質など存在しないという立場。悪としては「ルシファー」。

シュタイナー思想では、悪魔は2種類いるのですね。それがアーリマンとルシファー。以下に説明していきますが、ここにはヌーソロジー的な「四値論理」の構造を感じます。一者的価値観による振り子的二元論(プラス・マイナス)が人間を慢性的葛藤状態に閉じ込めます。そこを突破するのが四値論理。これは意識進化した変換人の論理である、というの
がヌーソロジーのキモですね。ちなみにこの四値論理とは、道教の陰陽太極図が表しているものと同じです。

さてそれで、人間は2番目の二元論の世界に叩き込まれています。ここで善悪闘争にあけくれ、慢性的な心身分離に陥ります。「二元論=人間論」という感じです。そして上で述べてきましたが、この二元闘争を作り出しているのが、神と悪魔であり、その大本の一神教精神、偶像と化したヤハウェ(本来の「YHWH」ではないという意味)。

そこで1番目が出てきます。宗教の欺瞞に気づき脱出しようという1つの試みです。それが唯物論。科学者達の多くがこの方向性を追求しています。しかしこれは言わずもがな、直観的なオカシさがあります。魂や死後の世界を否定する立場で、私たちの素朴な直観には反しています。この領域を支配する悪の力を、シュタイナーは「アーリマン」と呼びました。これはゾロアスター教の悪神「アンラ・マンユ」のことです。日本語表記が違うだけで、同じ意味。唯物論の暴走を主導する精神がアーリマンです。

そして3番目。純粋なる霊の世界、精神一元を求めようとする態度です。仏教の唯識などがそうですし、最近では現代スピリチュアルの根底にある「奇跡の学習コース」や、無我の現代的表現である「ノンデュアリティ」などもそう。奇跡のコースは、純然たる神一元論で、「神の霊」だけ、ということを宣言します。悪魔も物質も認めません。それらは全て「錯覚」という判断です。これは本来の一神教のカタチだと言えます。それで実践論としてはただひたすらの「許し」を主張します。

一元論ですから、主客一致の認識であり、かつ他者も認めません。なので、すべては自分の投影。他人に見える「怒り」は自分の「怒り」の投影であるとし、どこまでもただひたすら自己の内側の許しを追求していきます。これは先ほど説明した「鏡認識」ですね。

ちなみに私は「奇跡のコース」の方向性を大変評価しています。この道は「責任転嫁」を一切せず、すべてを自分の責任、自分だけの責任として引き受けていく道です。完全な鏡認識の道、「ホ・オポノポノ」と同じですね。

それが「ノンデュアリティ」までいくと、「自分がない」のですからそもそも「責任もない」という「完全解放」に向かいます。なるほど、その破壊力には目を見張るものがあります。しかし、不真面目な人に悪用されてしまうのでは? と心配になります。え、その心配する自分もないから関係ないって? はいはい、ノンデュアリティだからそうですよね。

ともかく、「純粋な一元」を求める立場が「奇跡のコース」や「ノンデュアリティ」であるということです。

しかしながら、シュタイナー~ヌーソロジー~自分教の見地から言えば、この立場にも問題が残ります。この立場に立つと、知らず「物質軽視」に陥ります。長い目でみれば、この方向性を採用してしまうと文明が停滞します。これはインドやチベットなど、東洋文明に停滞をもたらした原因でもあります。

シュタイナーが凄いのは、この領域を「ルシファー」的誘惑としていることです。シュタイナー思想で出てくる2つの悪魔的存在、アーリマンとルシファー。その内の1つです。これら悪魔は人間に干渉して、人間の霊性の健全な成長を阻害するというのです。ここにおいて、人間は自らの責任において、アーリマン的なものだけでなく、ルシファー的なものの誘惑をも避けながら成長していかなければならない、と説かれているのです。悪魔には2種類あるということですね。

ルシファー的悪を分かり易く言えば、酒に酔っ払ったような精神的快楽を求める悪のことです。厭世的な態度です。シュタイナーが神智学のブラバッキー夫人と袂を分かった理由の1つがここにあります。ブラバッキー夫人らが、古代エジプトの夢見心地な霊的体験を重視する方向にメンバーを指導していくので、シュタイナーはそれに反発し、神智学協会を脱会して人智学協会を設立したという経緯があったようです。霊性をもとめて、スピ的な楽しさばかり求めるのもルシファー的誘惑だと言えます。瞑想に伴う至高体験に固執する態度も例外ではありません。

またルシファー的悪には独特の排他性があります。この世界に耽溺するようになると、もう他人の言うことを一切聞かなくなるという傾向が顕著に見られます。瞑想に向かう方向性には他者がいないのですから、仕方がありません。

※『シュタイナー思想とヌーソロジー』・・・これは不朽の名著になると思います(統心)

●第4の道、「真の二元論」へ

当然ながら、ヌーソロジー~自分教がいく道は、これら3つの中にはありません。第4番目の道です。それを敢えて言うなら、

4.『真の二元論の道』

です。真の二元論、双子の精神であり、自己他者・双対性宇宙論のことでもあります。

宇宙の根源は真の二元性である、これがヌーソロジー~自分教の結論です。この真の二元性を採用することによって、善悪闘争は終わってしまいます。闘争するのは一元主義なのです。真の二元とはお互いの差を認めることであり、闘争自体が錯覚であったということが自然に分かるようになります。

次回以降の考察になりますが、真の二元論によって、悪の発生と存在理由もすべて説明されます。一神教精神のように矛盾を隠した偽りを演じる必要はありません。全てがそのまんま、あるがままの世界になります。

また、このあるがままの道は、神道家が大切にしてきた「かんながらの道」のことでもあります。それゆえ、この第4番目の道とは古神道、それもさらに遡る上古代の精神、カタカムナとかホツマツタヱの世界に通じるものがあると思います。

ちなみに私はこの第4番目の道を「スピリチュアル4.0」と呼んでいます。スピ0が唯物論、スピ1.0が精神論、スピ2.0が独我論、スピ3.0が無我論と来てからのスピ4.0です。それは「モノ自体」の世界、「物活論」となるでしょう。そこに「真の二元性」の世界があります。

この「真の二元性」をもたらすためには、まずは頑なな「一神教精神」を解体しなくてはなりません。実は上であげた第1の道「唯物論」も、第3の道「唯心論」も、ともに「一神教精神」に回収されているのです。上の3つ道は、すべて一神教精神の範疇なのです。

お疲れ様でした。第1回目はここまです。このあと今月中に

第2回テーマ

『物質世界の目的は「霊の個体化」にある』

第3回テーマ(最終回)

『「失敗概念の解体」による「善悪観念からの卒業」』

を順にアップする予定です。お楽しみに。

昨年12月の大阪教室では、今回の話につながるような、かなり集大成的なことを語りました。以下にDVDを紹介しています。12月度大阪教室DVDは、いつも愛聴して下さる皆さんだけでなく、始めての方にもお勧めできる内容となっています。

本年もまた、毎月の関西での勉強会とDVD発信をベースに、本日お話した「真の二元論」の実践について、深く探求し、皆さんと分かち合って行きたいと思います。皆さんとの双方向の刺激で、この実践論もどんどん進化していくことができます。

本年も何とぞよろしくお願いいたします。

2019年1月

自分教ガイド・とうしん 拝

【連絡事項①】
●2018年12月度大阪ヌーソロジー教室の動画DVD、できました!

12月テーマ:『一神教精神のあとにに来るもの』
「一神教精神」という「エクスカリバー」を引き抜け!

昨年12月8日に福岡で行いました講演をベースに

講演では掘り下げて語ることのできなかったポイントを

関西ヌース教室ならではの、臨場感とユーモアを交えて詳しく見ていきたいと思います。

初心者にもお勧めの内容です。

動画の冒頭部分をYouTubeにアップしています。

お申し込みは以下のページからどうぞ。

【連絡事項②】
●2019年1月度ヌーソロジー教室やります(京都・大阪)

1月テーマ:2019年の展望

年初は恒例、その年の展望をヌーソロジー的視点を交えながら見ていく回です。

特に今年は平成最後、重要な節目の年です。何が飛び出すことやら。

1年の始め、初詣感覚でお越し下さい(笑)

★1/22(火) 京都ヌース教室
場所:ウィングス京都 会議室11
午後6時半~9時

★1/26(土) 大阪ヌース教室
場所:江之子島文化芸術創造センター Room8
午後1時半~5時

すぐに使える至高体験テクニック7選

前回の続きです。
守護の神霊の働きを、一層強く実感した体験です。少々長くなりますが、私のビジネスキャリアのスタート時点からお話しします。生々しい体験談ですが、そろそろ時効にしても良いのではないかと考え、ここに書くことにします。

創業者の息子さんに気に入られて
私が大学卒業後に就職した会社は当時注目企業ではありましたが小さな会社でした。
しかし、創業者の並外れた力によって入社後10年ほどの間に全国的にもよく知られる企業に成長しました。その意味では私は幸運でした。

私は下積みから始め、入社7年目の頃に創業者の息子さんに気に入られ、徐々に重要な職責を担うようになりました。創業者の息子さんはのちに2代目社長になる人ですが、周りでは「ニコイチ(二個一)」と陰口を言われたほど、私に目をかけてくれていました。ニコイチとは二人で一人前という事です。その陰口が私に耳に入り、息子さんに「こんなことを言われているそうです」と伝えたところ、「良いじゃないか。本当のことだ」と言ってくれるほど、信頼もされていたと思います。

「いずれこの人が会社を継いで、経営の重責を担うのだ」と思えばまだ三十前後、未熟、非力な私でしたが、「この人の為に骨身削って、仕えよう」と心に期するものがありました。
そんな私の気負いを「生意気だ」と感じる先輩も少なからずいたと思います。息子さんも才気煥発するところがあり、古い幹部からは少なからず宇宙人のように見られていましたから、私も含めて「ニコイチ」と揶揄されたのも、今から振り返れば無理のない事だとも思います。

私が三十歳になる前に、大きなトラブルが発生します。東京と北海道での取引先の脱退騒ぎです。本社は大阪でしたが、東京(東日本エリア)は別の会社のような状況で、それが高じて内紛が起こったのです。
その対策の為に創業者の弟さん、当時のNo2が東京に派遣されました。そしてその方から追加の人材投入の要請があり、創業者は息子さんを東京に送り込む決心をなさいました。

そして、その息子さんと一緒に東京へ行くように私に下命がありました。当時、大きな会議の中で、創業者から「○○(息子さんの名前)には横井をつける」と発表されたことが記憶にありますから、創業者も期待をもって送り出して下さったと思います。

そこから私の東京でのビジネスキャリアがスタートします。
それまでも会社は順調に成長を続け、短期間に大成功をおさめた企業として、知らない人はいないほどになっていました。そしてその後、創業者が年齢を重ねられるにつれて、息子さんも役員から役付き役員に、更に副社長になり、事業継承、代替わりが秒読み態勢に入っていきました。

息子さんは前述のように才気煥発型の人で、創業者に仕えた幹部は表面上はともかくも一定の距離を置くところがありました。
息子さんは新しいことが好きで、色々思いつかれることを矢継ぎ早に私に指示します。私もできる範囲でこれに応え、私のやりたいこともドンドンやらせてもらいました。
前述のように、未熟、非力な若造でしたから、成功も、失敗もありました。今考えるとそのころの経験が良い勉強になり、今の私を支える力になっています。

順調なビジネスキャリアに不安が
そんな私が40代の働き盛りになった頃からです。前回のブログに書いたように仕事の上でのストレスを少なからず感じることになりました。恥ずかしい話ですが、仕事上のストレス、というのは「人間関係」です。新卒で入り、既に二十年以上勤務している会社でしたが、周りの空気になじめず、孤立感や居心地の悪さをぬぐえずにいたことが一つ、もう一つは息子さんとの関係でした。

息子さんとの関係は特に代替わりしたトップ就任以降、それまでと違ったものになっていました。
周りは私の事を息子さんの腹心、イエスマンと考えていたと思います。また息子さんは前述のように、才気煥発、アイデア豊富で、思いついたことを熟考なしにやろうとするところがありました。創業者や創業者の弟さんたちはそのことを心配されてたと思います。
もちろん私も息子さんのそのような面はよく承知していましたので、いざというときは私がブレーキ役になろうとも思っていました。

息子さんのトップ就任前にも何度か意見が合わず、対立したことがあります。
その代表的なケースが息子さんが目論んだ「CIの一新」でした。
CIとはコーポレイトアイデンティティの事で、判りやすく言えば、「企業を象徴するマークやロゴなどのデザイン」のことです。

当時CIの見直しは一種のブームのようになっていました。そういう風潮もあったのでしょう。
トップ就任が視野に入った頃、息子さんは社内にCIプロジェクトを立ち上げ、外部から専門家を招き、CIの一新に取りかかりました。私の先輩がプロジェクトリーダーに選ばれて、1年ほど活動をし、いよいよそのとりまとめに入ろうとしたとき、私にもプロジェクトに参加するようにとの指示がありました。

まだ若かった私はCIなるものをよく承知していませんでしたし、またプロジェクト活動についても深くは承知していませんでした。しかし、その内容を知るにつけて「これは困った」と思う事になりました。

私は創業者と息子さんの間、またお二人を含んだ取締役会で当然何らかの議論がなされているものと思っていました。しかし、役員会でキチンとした報告なり、審議が行われることなく、創業以来、世間に広く親しまれてきたデザインやマークを一新するというプランが億単位のお金をかけて進行していたのです。

ある日、息子さんと一緒にCIデザインを発注したデザイナーのところへ打ち合わせに行くことになりました。その時、初めて私はそのデザインを見ることになりました。
新デザインは全く良いとは思えませんでした。

当然現在のデザインに親しんでいる得意先の大きな反発が予想できました。看板の付け替えなどに要する費用はプロジェクトに使った億の単位の費用の何倍にもなることも予想できました。
もちろん創業者の大反対は想像に難くありませんでした。
おそらく社内の関係者で息子さんが手掛けている仕事でないとしたら、賛成する人は皆無だったでしょうが、それを言える人はいませんでした。

息子さんはそのような状況が一向に目に入らないのか、私の目の前で「来週の役員会で決議します、決議したら直ちに看板などのデザイン変更に着手するので、引き続きよろしくお願いします」とデザイナーに役員会決議以降の業務の依頼まで行いました。

私は「ここで言わないといけない」
と思い、意を決して「絶対無理です。役員会が通るわけはありません。また取引先も収まりません。この案を役員会に出すのは絶対反対です」と外部のデザイナーの前でしたが、言ってしまいました。

気まずい空気が流れたのは言うまでもありません。そのまま打ち合わせは流会になり、不機嫌になった息子さんと帰社することになりました。

その後、役員会での発表が見送られたか、形を変えて行われたか、古い話で記憶にありませんが、CI計画は沙汰闇になりました。

強まる社内での孤立感
小さなことで息子さんに意見することはありましたが、このような問題で、ハッキリ反対を表明したのはこの時が最初だったように思います。
そして不幸にもそのような事態はだんだん多くなっていきました。

特に息子さんがトップに就任し、私も役員に登用されて以降、役員という立場とは裏腹に精神的には「針のむしろ」のような状態に追い込まれていきました。
何故なら役員になるということは取締会案件に対して、賛否を明らかにする必要があったからです。役員就任前までは公然と賛否を明らかにする必要はありませんでした。

役員になってからも、心では「反対」と思う事は少なくはありませんでしたが、実害がさほどないと考える場合は「賛成」することにしていました。
取締役とはいえ、実態はサラリーマンです。上司である社長に嫌われては立つ瀬がありません。

創業者はカリスマ経営者でしたが、その当時から役員会は社長の意向に沿う決議がなされる傾向があったと思います。それが息子さんの代になってますます強くなったのでしょう。社長の意見に取締役が面と向かって反対を唱えることは先ずありませんでした。

とはいえ、実害が大きいと思う案件も何回かに一つや二つ出てきます。
そんな時、「反対」を言える自分であろう、という努力をしていました。

例えば、100億円ほどの金額であったと記憶していますが、海外事業の買収の提案が取締役会に上程されました。
私はハッキリ反対でした。うまくいくとはとても思わなかったからです。私なりに社長との関係に配慮しながら、「反対」の論陣を張りました。決議は翌月に持ち越されました。

翌月の役員会の前に先輩役員から呼び出しを受けました。行ってみると、その案件の話です。曰く「反対するつもりだろうが、これに反対されたら困る。社長が是非やりたいという案件だ。全員一致で賛成にしたい」という事でした。私には「一人だけ、イイかっこするな」と聞こえました。

そこで役員会ではやむを得ず、「起案の金額(100億円)では賛成できないが、資産価値などから買収金額が半分以下であれば反対しない」と条件を付けて、条件付きの賛成という形に収まりました。結果、起案の金額で買収が決まったことに暗澹たる気持ちになったことは言うまでもありません。

このようなことを繰り返しているうちに、私のストレスは益々深刻なものになってきました。

山本印店での桃仙先生との出会い
そのころです。前回のブログでも紹介したホテルでの一件を「妖怪との遭遇」と見抜いた霊覚のある知人から「はんこ」を作ることを薦められていました。
彼が曰く「運気を向上させる開運印」とのことでした。彼のことは信頼していましたが、はんこにそのような力があるとは思っていませんでしたから、なかなかその気になりませんでした。

しかし、社内での孤立感や二代目社長との人間関係にいい加減疲れていた私は「溺れる者は藁(わら)をも掴む(つかむ)」の心境で、そのはんこを作ってみようと思うようになりました。

そして、これがその後の私の人生観を変える出会いとなり、今日のテーマである守護の神霊の働きを一層実感する機会にもなったのですが、そのはんこ屋さんが「山本印店」です。

山本印店は有名なはんこ屋さんです。ネットで検索するとそこでハンコを作った人の体験が沢山出てきます。

私の体験は少し生々しい話ですが、今回のテーマの守護の神霊の存在について書くには避けることのできない話ですから、山本印店での話を書く事にします。

山本印店 最初の訪問
山本印店への最初の訪問は空振りに終わりました。知人から場所を教えて貰って、訪問したのですが、教えて貰った「長い行列が出来ているのですぐわかる」という「行列」がありません。

それと思しきはんこ屋さんはあるので、尋ねてみると、「あまりに沢山人が押し寄せて、収拾がつかなくなったので、予約制にした」という事です。
予約は行きたい日の前日の12時からスタートする事を聞き、後日改めて予約の電話をかけてみました。しかし話し中でまったく繋がりません。何度も電話してようやく繋がったと思ったら、既に翌日の予約は一杯で、改めて予約を、と言われました。

そこで、今度は一家総出で電話したところ、幸い予約を取ることが出来、約束の時間に家内と訪れることになりました。家内と一緒に行ったのは、紹介してくれた知人に勧められたからです。
行ってみると、相談中の方が既に二組いらっしゃり、狭い店内に入れません。そこでしばらく店外で待たされました。一組が出てこられ、ようやく店内に入ります。

指示されて、生年月日、氏名をメモ用紙に記入しながら、待ちます。目の前では店主の桃仙先生がお客の相談に答えています。
そこでは、先生の「あなたこうでしょう」などという言葉に対し、「えェー、なんでそんなこと判るんです!!」といったやり取りがされていました。

それを見ながら、「これは本物(の霊能者)のようだ」と内心、ドキドキしたものです。
そして私たちの順番になりました。先生の前に座り、使っている「はんこ」と氏名などを書いたメモを差し出します。

先生は先ず私のそれを見て、このように言われました。
「あなたははんこを作る必要ないな」「あなたは行くべきところが決まっている人だ」「今使っているはんこもいいはんこだよ」

それから家内のはんことメモを見て、このようにおっしゃいました。
あなたのご先祖様が、この人のところにあなたを連れて行ってくれたんだよ。この人は立派な人だよ。自分のない人だ。家族のことと会社のことばかり考えている。」「相性もいいね。ご先祖様が選んだ人だからね。」

更に家内に語りかけます。
「奥さんの実家、大変だね。跡取りがいないね。」「子供さんはいるの?」「子供さんの名前と生年月日をここに書いてごらん」
そこでメモに子供の生年月日を書
いて渡すと一言
「真ん中の男の子ね。この子が奥さんの実家を継ぐ子だよ。」
「子供たちは皆良い子だね。ちゃんと跡取りになるね」

家内の実家についての指摘はまさに図星でした。家内の実家にも子供が3人いましたが、事情があって、家を継げない状況にありました。それを言われたので、「この先生は本物だ」という思いを深めることになりました。

15分ほどこのようなやり取りがあったでしょうか、次の人も待っています。先生は私に「どうする?あなたははんこ作る必要ないんだけれど」と言われます。
私は15分とはいえ、良いアドバイスが頂けたので、このまま帰るわけにもいかない、と思い、「先生、良ければはんこを作ってください」とお願いしました。

そのはんこを今も使っていますが、その時のアドバイス「あなたは行くべきところが決まっている」に私は安心しました。紆余曲折はあっても心配はいらないんだな、と受け止めることが出来たからです。そして、明るい気持ちになって山本印店を後にしました。

状況は一層深刻に
しかし、その後の状況は芳しくありません。孤立感は弱まることはありませんでした。また二代目社長との関係のぎくしゃくし感も強くなりました。
社長のやることに不信や不満が募るばかりです。
「まるで裸の王様だ」という思いも強くなりましたが、なんとか社長との関係や経営の方向を修復、修正しようと私なりに努力をしました。
しかし、その努力が却って社長の私への不信感を助長させたのでしょう。
ある日、社長から役員の退任を言い渡されることになります。

その日、社長からはこのような話がありました。
「次回の株主総会で退任して貰いたい。次世代の体制作りで新たな取締役を増やすための処置だ。君には教育事業を行うために新設する子会社の社長になってもらう。自分もそう遅くない時期に社長を辞めるつもりだ。その後はライフワークとして教育の仕事をしたい。その時の受け皿を君に作っておいてほしい。」

私にはそのような予感がありましたから、「やはりそうか」とは思いましたが、ショックは小さくありませんでした。「考え直してもらえませんか」と聞いたのは、「もし自分が取締役会を去ったら、会社はどうなるのか」という自負もありましたが、大きかったのは、取締役をやめることへの失望感であったと思います。
社長からは「将来はその新会社で自分を支えてほしい」という言葉がありましたが、大きな失意、喪失感はぬぐえませんでした。

そんな失意のドン底にあった時に、思いついたのが「もう一度、桃仙先生に相談しよう。新会社のはんこは山本印店で作ってもらおう」という事でした。
そして二度目の山本印店への訪問になります。

山本印店 二度目の訪問
新会社の名前は決まっていました。その会社の名前をメモにして、「今度会社を立ち上げることになったので、この社名の社印を作ってほしいのです」と桃仙先生に差し出しました。
先生はそのメモの見ながら、このようにおっしゃいました。

「この会社のはんこは作ってもしようがないね。」「この会社はあなたの会社じゃないでしょう。」「親会社ががんじがらめにしているからね」「だから作る必要なし」

先生の眼力に驚きながらも、がっかりした様子の私を心配してくれたのでしょう。
桃仙先生は「どういうことだい?」と聞いてくださいました。
そこで私は、全国的に知られた会社の役員をしていること、色々あって次の株主総会で退任すること、新会社は退任後に社長に就任する予定の会社であることを説明しました。

先生が社名を聞かれましたので、私は正直に社名を明かしました。先生は少し驚かれて、「大きな会社じゃない。あなたそこの役員なの?偉いんだね。」「でもね、たとえ寒いところに行っても、○○が売れるからね。そう心配するものでもないよ。」と言われました。
○○とは寒冷地でよく売れる商品でした。

私は「???」です。その後も何度か「寒いところでも○○は売れる」という事をおっしゃいます。私は不思議に思い、「先生、その○○というのは何のことです」と聞いたところ、「あれ、寒いところの会社に行くんじゃないの」と言われます。

私の落ち込んだ様子や会社のイメージから、北海道や東北の販売会社に左遷される、というように思われたようでした。そこで「先生、違います。北海道や東北に行くわけじゃないんです。」と言ったところ、先生はメモを見ながら、「じゃぁ、これは何の会社なの?」と聞かれました。私は「教育やコンサルティングの会社」です、と答えました。

先生は「あなたはそのために生まれてきたような人だよ。天職だ。会社はあなたをよく見てるじゃない。」と言ってくださいましたが、私の気持ちは一向に晴れません。その様子を見て、先生はこのようにおっしゃいました。

あなたはね、自分が悪い方へ悪い方へ運ばれているように思っているね。でもね、そうじゃないんだよ。あなたのね、母方のご先祖様があなたを守っているよ。この人はね、本当に立派な偉い方だよ。そのご先祖様がね、あなたを安全な方へ安全な方へ連れて行ってくれているんだよ。母方のお墓にお参りしているかい?場所を知らない?駄目じゃない。キチンとお参りするんだよ。

あなたが会社で孤立するのは仕方がないんだ。あなたは唯一正しい事を言っているんだよ。一人正しい事を言うから孤立するんだ。あなたはね、大久保彦左衛門みたいな人だ。社長もあなたが煙たいんだよ。また社長のそばに女性がいるね。その女性が社長とあなたの間を裂こうとしている。でもね、それもあなたにとっては良い事なんだ。あなたはね、このまま役員でいたら、体を壊してしまうよ、そうならないようにご先祖様があなたを守ってくれているんだ。だから心配することは全くない。

大久保彦左衛門のくだりには、「なるほど」と思いましたが、ご先祖が守ってくださっているという話には思い通りにいかない現実を前に私ピンときませんでした。その様子を察したのか、先生はさらに続けます。

2年以内かな、今の話の意味が分かるよ、(私の生年月日を書いたメモを見ながら)、2年はかからないな、今日から二度目の誕生日の前、それまでにあなたにはわかる。あなたの会社にはね、近いうちに大きな問題が起こる。外資との問題だよ。そのときにね、あなたが責任あ
立場にいると、本当にあなたが体を壊すようなことになるんだ、今はわからなくとも、それが判るまで頑張ればいいよ。いずれ分かるよ。

すでに次の相談者が待っています。20分ほどのやり取りがあったでしょうか、目的の社印は作ってもらえませんでした。そして、相談へのお礼をおき、釈然としないまま、山本印店を後にすることになりました。

その後、失意の底に落ち込んだ私は体を壊しましたが、甲田先生のおかげで回復することが出来ました。そして、新会社の社長業務に取り組む事になります。
桃仙先生に「天職だよ」とおっしゃっていただいたように、仕事を始めるとそれなりの充実感を持って仕事に取り組めるようにもなりました。

そしてこの相談から2度目の誕生日を迎える前のことです。桃仙先生の言われた外資との問題が起こります。その結果、創業者の子息、二代目社長は退任を余儀なくされることになりました。

このことは守護の神霊の守りを改めて実感し、確信する機会になったのは言うまでもありません。
母方の墓参りに心がけるようになったのは勿論、日常的にも一層心を込めて、守護の神霊への感謝を行えるようになりました。

長くなりましたので、この続きは次回にしたいと思います。

続きと関連記事

(写真は桃仙先生のエッセーの表紙です。)

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