至高体験が想像以上に凄い件について

至高体験が想像以上に凄い件について

至高体験について語るときに僕の語ること

新しい年、2019年が始まりました。

本年もブログ「自分教ガイド」をよろしくお願いいたします。

昨年はやや更新不足だったこのブログですが、今年は初心に戻って積極的に更新していくつもりです。また内容の方もヌーソロジーを中心としつつ、そこに自分教ガイド・とうしん独自の観点から、読者の皆さんがそれぞれの「自分教」を確立できるように、より実践的なものを多く発信していきたいと思います。

さて新年最初のテーマは、『善悪観念からの卒業』です。私自身はクリスチャン出身ということもあって、特定の宗教観念とか、特定の信仰団体や信念体系に囚われた経験があり、そのことによる功罪をいやというほど体感してきました。

本日の記事は、主に宗教がらみの苦い経験を引きずっている人向けです。しかし宗教とは無縁の生活をして来た方であっても、何らかの信念に囚われたことはあるでしょうから、それぞれの立場にあてはめて読んでみて下さい。

先週にほぼ書き上げた記事ですが、かなり長くなりましたので、これから3回に分けてアップしたいと思います。

それでは早速始めましょう。

『善悪観念からの卒業』全3回シリーズ
第1回テーマ:神と悪魔は表裏一体

シリーズ第1回目は、『神と悪魔は表裏一体』というお話をしたいと思います。

いきなりこんな事を言っても拒絶か無視されることは分かっています。神を信仰してきた宗教経験者にとって、信仰生活での尊い経験や美しい記憶、信じていた教祖や教団仲間達への思い入れなどが複雑に絡む問題ですから、ことはそう単純ではないでしょう。それゆえ、まずは事実関係からクールにせめてみたいと思います。

●大病院を支えているのはガン患者

大病院を支えているのはガン患者・・・例えば抗がん剤の価格はピンからキリまでありますが、昨年ノーベル賞で有名になった「オプシーボ」は100mgで73万円、1gなら730万円です。もちろん患者には自己負担3割に高額療養費などで支出は抑えられますが、公的保険から支払われる費用で病院と製薬会社は儲かります。人工透析患者一人あたり年間500万円の売上げを病院にもたらすそうです。日本の医療費は2015年度で約42兆3644億円。40兆を超える医療費を病院関連で分け合っています。

病気やケガなどが病院を支えている。これはそのまま精神世界、とくに宗教団体というシステムにも言えることではないでしょうか。

宗教で言えば、悩み苦しみ、様々な問題や葛藤が宗教を支えています。宗教に一番利益をもたらし、宗教を根底で支えているのは、人間に苦しみを与える存在、つまり悪魔なのです。これは事実です。このことは冷静になって向き合う必要があると思います。

悪魔が宗教を支えている。悪魔がいなければ宗教は成立できない。救い主も教団組織も、全ては悪魔との協働によって維持されています。「聖なるもの」を求める欲望が実はどれほど「汚れているもの」なのか、一度そのことを冷静に見つめる必要があります。

●歴史的事実をみても・・・宗教が見せる排他性と熾烈な争い

宗教は多くの血を流してきました。それも殉教の血という美しいものだけではありません。征服・殺戮の血をたくさん流してきたのです。例えばキリスト教では中世・十字軍によるエルサレムでの殺戮。ユダヤ人・アラブ人という理由だけで一般市民・女性子供ら数十万人を虐殺し、十字軍の兵士は返り血を浴びたまま神に歓喜の祈りを捧げました。そしてアフリカ大陸の征服と搾取、南北アメリカ大陸に渡っての原住民の虐殺と搾取にも宗教がからんでいます。

日本においても豊臣秀吉によるキリスト教禁止の理由の1つに、ポルトガル宣教師による日本人奴隷の輸出がありました。いろんな説が入り乱れていますが、数十万人が奴隷として売られていったという文献もあります。いまでもポルトガルやスペインには日本人の血を受け継ぐ人が沢山います。とにかく当時の西欧支配者の精神性にキリスト教的価値観から来る優越感と差別があったことは間違いありません。有色人種や土俗宗教をとことん野蛮なものとして見下していたのです。

宗教は権力、排他性・独善性、人種差別など数々の問題をもたらします。それはキリスト教など一神教にだけ見られるものではなく、仏教の歴史にも見られます。これは何故でしょうか。

●宗教は善悪観念を持つ

過去宗教が残した多くの課題を解決するべく、現代に入り新しい宗教が多数登場しました。いわゆる新興宗教の数々。しかしながら、それら新興宗教が人類の課題を解決したとは到底思えません。むしろ新たに多くの問題と混乱を巻き起こしています。信じて裏切られた人も多いでしょう。信じ切れなかった挫折感を引きずる問題もあります。いずれにせよ、幸福を実現するはずの宗教が、不幸と悲劇を産み出しているという事実・・・これは経験者には分かる、と思います。

なぜそのような事になってしまうのでしょうか。本日のテーマである「神と悪魔は表裏一体」とは、その理由を端的な言葉で言い表しています。

宗教は、かならず善悪観念を持っています。そこには悪魔の存在が出てきます。その悪魔との関係において原罪や堕落、そして救済の概念があります。これはキリスト教系でなくても、大抵の宗教においては、善悪の分離闘争、つまり「善の主体である神」と「悪の主体である悪魔」というような二元闘争物語があるのです。善悪二神と言えば古代宗教であるゾロアスター教が有名ですが、古代ゾロアスター教から今日に至るまで、この二元闘争物語は続いているのです。

ところで本来の神とは、悪を認めないほどの絶対性があるのではないでしょうか。なぜなら本来の神は「絶対善」だからです。信仰者ならこの事に異論は無いはず。神学的にもこれは正しい解釈です。絶対善である神が対象とするものはすべて善となります。それ故、悪とは神の対象にならない存在なのです。分かりすく言うと、本来の神は悪を完全に無視するはずです。

これが神を信仰する宗教に入ると、必ずや善悪闘争物語の中に巻き込まれます。神の意図に反して悪魔が大活躍するのです。その理由は「罪観」にあります。

これまた多くの宗教に共通ですが、それは「悪の責任が人間にある」という何らかの罪観があるのです。これによって人間にとんでもない重責が押しつけられます。人間はここから善悪分離の
性的分裂症という不治の病にかかり、宗教という病院から一生、さらには死後の世界までも逃れられない状態に落とされるのです。

この状況は、先にあげた病気と病院の関係に似ています。病院は病気を治したい。でも病気が病院を支える。医者と患者の関係。病院を支えているのは患者。何か同じ構造があると思いませんか。

(※誤解しないで頂きたいのですが、生命の現場・限界状況の中で日々格闘されている医療関係者をディスるつもりは全くありません。それどころか、私は医療関係者に対しては最大級のリスペクトを持っています。ただただ、頭が下がる思いです。私がここで問題にしたいのは「構造」です。人間が持っている限界構造。この閉塞状況を突破したいという意図だけなのです。)

病院が病気を必要とするように、宗教には「罪」が必要なのです。罪がなければ宗教は成り立ちません。しかしながら、神とは本来、罪とは全く関係がありません。つまり、罪を扱う場所と神を扱う場所が同じにはならないのです。これは困った。そこで「罪の主体」であるもう1つの神、つまり悪魔が必要になるのです。これが宗教の構造です。

まとめると、何らかの神を信仰する宗教は、実際には悪魔の存在を同時に必要とし、神と悪魔の二神論となって、人間を善悪の分離・葛藤状態に閉じ込める。二元論状態です。そして善悪分離というのは、実際には霊と肉の分離、心身の分離を引き起こします。理想と現実の葛藤状態です。この二元論闘争状態が、宗教の統治にとって根本的に必要なものとなります。

このような善悪二元闘争を必要とする精神を私は「一神教精神」と呼んでいます。一神教ではない、むしろ多神教であるという宗教があったとしても、そこに「善悪観念」がある以上は「一神教精神」の範疇にあるのです。そうではないでしょうか。

●新しい元号スタート、いよいよ自身の善悪闘争を終わらせよう

宗教は必ず善悪観念をもつ。神を信仰するということは、その裏に悪魔の存在を必要とする。そんな神を信仰する人間は、神と悪魔の善悪二神によって心身分離し、慢性的葛藤状態に陥る。このような善悪二神闘争をもたらす精神が「一神教精神」。その意味で、いかなる宗教も一神教精神の範疇にあると言える。

一神教精神は「善悪二神」という振り子を作り出すのです。本日のテーマである「神と悪魔は表裏一体」というのは、この振り子としての「善悪二神」のことです。

「神様が実は悪魔と同じだった」などと言われたら、信仰心のある人が反発するのは当たり前です。でもそれは振り子としての「善悪二神」のことであって、心の美しい皆さんが、愛し、信じ、求めて来た「本来の神様」のことではありません。そのような神様は皆さんの心の投影なのです。皆さんの美しい心が、それを表現しているのです。その神様は皆さんの心の中にいるのです。

皆さんの心の中にある「神様」の登場を阻んでいるのが、外側から圧力をかけてくる一神教精神なのです。本来は、神(カミ)+我(ガ)=鏡(カガミ)として、「完全なる鏡認識」のもとに神人合一があるということを以前にお伝えしました。一神教精神はその鏡を割って「主体vs客体」の対象認識をもたらし、神と我を分離し、外側に神を祀らせようとします。それを元に戻し、鏡認識を取り戻す必要があります。

鏡認識に至れば、原罪論などもおかしな話であるということが分かるのです。罪を語るものは、罪自身なのです。いわゆる「魔釣り」ですね。正神をたてまつる「祀り」に対して、魔を引き釣り出す「魔釣り」。「まつり」には2種類ある、というのが日月神示関連でよく言われます。

「悪魔」や「罪」というものは、人の心にある魔を釣り上げる為の概念。清水で油汚れを落とせないように、油には油と同じものをあてなければなりません。それと同じ。鬼をみるものは鬼であり、仏をみるものは仏であると。ここに最後の「一厘の秘密」が関係しています。

そして神人合一する鏡認識においては、神と私は「一対一の関係」となります。この関係こそが真の一神教であり、偶像崇拝という「幅認識」を避ける、純粋な「奥行き認識」の一神教である、と私は本に書きました。そして、それぞれが神人合一して「自分自神」なのですから、多神教でもあります。「一神教即多神教」の世界、それが「和多志」の世界です。これがスピリチュアルで言われるムーの記憶であり、縄文、古代日本精神です。

「和多志」とは「私」の古語。この語の中に古代日本精神、日本語の精神がよく現れています。

ところで今年は新天皇による新元号スタートの重要な節目。前回の昭和から平成への移行時には「東西冷戦の終結」がありました。それでいくと、今回の移行時には「南北冷戦の終結」があると予想されます。それは朝鮮半島の南北統一かも知れません。(※現在、北主導の統一になる可能性がまことしやかに囁かれていますね) 

しかし、そのような外側のことよりも、私たちは自身の内側の南北冷戦を終結しなければなりません。すなわち、本日一貫して語ってきている「神と悪魔による茶番の善悪闘争」を各自がそろそろ終わらせる時が来たのです。

●最後に・・・私たちが行くのは第4番目の道である

最後にシュタイナーの霊智をかりて、神や悪魔の問題をとうしん流にまとめてみます。

まず3つの道があります。

1.唯物論の道
すべて物質、神や霊など存在しないという立場。悪としては「アーリマン」。

2.二元論の道
霊と物質の分離、二元。終わりなき二元闘争におかれる立場。悪としては「一神教精神・ヤハウェ」。

3.唯心論の道
すべて霊、物質など存在しないという立場。悪としては「ルシファー」。

シュタイナー思想では、悪魔は2種類いるのですね。それがアーリマンとルシファー。以下に説明していきますが、ここにはヌーソロジー的な「四値論理」の構造を感じます。一者的価値観による振り子的二元論(プラス・マイナス)が人間を慢性的葛藤状態に閉じ込めます。そこを突破するのが四値論理。これは意識進化した変換人の論理である、というの
がヌーソロジーのキモですね。ちなみにこの四値論理とは、道教の陰陽太極図が表しているものと同じです。

さてそれで、人間は2番目の二元論の世界に叩き込まれています。ここで善悪闘争にあけくれ、慢性的な心身分離に陥ります。「二元論=人間論」という感じです。そして上で述べてきましたが、この二元闘争を作り出しているのが、神と悪魔であり、その大本の一神教精神、偶像と化したヤハウェ(本来の「YHWH」ではないという意味)。

そこで1番目が出てきます。宗教の欺瞞に気づき脱出しようという1つの試みです。それが唯物論。科学者達の多くがこの方向性を追求しています。しかしこれは言わずもがな、直観的なオカシさがあります。魂や死後の世界を否定する立場で、私たちの素朴な直観には反しています。この領域を支配する悪の力を、シュタイナーは「アーリマン」と呼びました。これはゾロアスター教の悪神「アンラ・マンユ」のことです。日本語表記が違うだけで、同じ意味。唯物論の暴走を主導する精神がアーリマンです。

そして3番目。純粋なる霊の世界、精神一元を求めようとする態度です。仏教の唯識などがそうですし、最近では現代スピリチュアルの根底にある「奇跡の学習コース」や、無我の現代的表現である「ノンデュアリティ」などもそう。奇跡のコースは、純然たる神一元論で、「神の霊」だけ、ということを宣言します。悪魔も物質も認めません。それらは全て「錯覚」という判断です。これは本来の一神教のカタチだと言えます。それで実践論としてはただひたすらの「許し」を主張します。

一元論ですから、主客一致の認識であり、かつ他者も認めません。なので、すべては自分の投影。他人に見える「怒り」は自分の「怒り」の投影であるとし、どこまでもただひたすら自己の内側の許しを追求していきます。これは先ほど説明した「鏡認識」ですね。

ちなみに私は「奇跡のコース」の方向性を大変評価しています。この道は「責任転嫁」を一切せず、すべてを自分の責任、自分だけの責任として引き受けていく道です。完全な鏡認識の道、「ホ・オポノポノ」と同じですね。

それが「ノンデュアリティ」までいくと、「自分がない」のですからそもそも「責任もない」という「完全解放」に向かいます。なるほど、その破壊力には目を見張るものがあります。しかし、不真面目な人に悪用されてしまうのでは? と心配になります。え、その心配する自分もないから関係ないって? はいはい、ノンデュアリティだからそうですよね。

ともかく、「純粋な一元」を求める立場が「奇跡のコース」や「ノンデュアリティ」であるということです。

しかしながら、シュタイナー~ヌーソロジー~自分教の見地から言えば、この立場にも問題が残ります。この立場に立つと、知らず「物質軽視」に陥ります。長い目でみれば、この方向性を採用してしまうと文明が停滞します。これはインドやチベットなど、東洋文明に停滞をもたらした原因でもあります。

シュタイナーが凄いのは、この領域を「ルシファー」的誘惑としていることです。シュタイナー思想で出てくる2つの悪魔的存在、アーリマンとルシファー。その内の1つです。これら悪魔は人間に干渉して、人間の霊性の健全な成長を阻害するというのです。ここにおいて、人間は自らの責任において、アーリマン的なものだけでなく、ルシファー的なものの誘惑をも避けながら成長していかなければならない、と説かれているのです。悪魔には2種類あるということですね。

ルシファー的悪を分かり易く言えば、酒に酔っ払ったような精神的快楽を求める悪のことです。厭世的な態度です。シュタイナーが神智学のブラバッキー夫人と袂を分かった理由の1つがここにあります。ブラバッキー夫人らが、古代エジプトの夢見心地な霊的体験を重視する方向にメンバーを指導していくので、シュタイナーはそれに反発し、神智学協会を脱会して人智学協会を設立したという経緯があったようです。霊性をもとめて、スピ的な楽しさばかり求めるのもルシファー的誘惑だと言えます。瞑想に伴う至高体験に固執する態度も例外ではありません。

またルシファー的悪には独特の排他性があります。この世界に耽溺するようになると、もう他人の言うことを一切聞かなくなるという傾向が顕著に見られます。瞑想に向かう方向性には他者がいないのですから、仕方がありません。

※『シュタイナー思想とヌーソロジー』・・・これは不朽の名著になると思います(統心)

●第4の道、「真の二元論」へ

当然ながら、ヌーソロジー~自分教がいく道は、これら3つの中にはありません。第4番目の道です。それを敢えて言うなら、

4.『真の二元論の道』

です。真の二元論、双子の精神であり、自己他者・双対性宇宙論のことでもあります。

宇宙の根源は真の二元性である、これがヌーソロジー~自分教の結論です。この真の二元性を採用することによって、善悪闘争は終わってしまいます。闘争するのは一元主義なのです。真の二元とはお互いの差を認めることであり、闘争自体が錯覚であったということが自然に分かるようになります。

次回以降の考察になりますが、真の二元論によって、悪の発生と存在理由もすべて説明されます。一神教精神のように矛盾を隠した偽りを演じる必要はありません。全てがそのまんま、あるがままの世界になります。

また、このあるがままの道は、神道家が大切にしてきた「かんながらの道」のことでもあります。それゆえ、この第4番目の道とは古神道、それもさらに遡る上古代の精神、カタカムナとかホツマツタヱの世界に通じるものがあると思います。

ちなみに私はこの第4番目の道を「スピリチュアル4.0」と呼んでいます。スピ0が唯物論、スピ1.0が精神論、スピ2.0が独我論、スピ3.0が無我論と来てからのスピ4.0です。それは「モノ自体」の世界、「物活論」となるでしょう。そこに「真の二元性」の世界があります。

この「真の二元性」をもたらすためには、まずは頑なな「一神教精神」を解体しなくてはなりません。実は上であげた第1の道「唯物論」も、第3の道「唯心論」も、ともに「一神教精神」に回収されているのです。上の3つ道は、すべて一神教精神の範疇なのです。

お疲れ様でした。第1回目はここまです。このあと今月中に

第2回テーマ

『物質世界の目的は「霊の個体化」にある』

第3回テーマ(最終回)

『「失敗概念の解体」による「善悪観念からの卒業」』

を順にアップする予定です。お楽しみに。

昨年12月の大阪教室では、今回の話につながるような、かなり集大成的なことを語りました。以下にDVDを紹介しています。12月度大阪教室DVDは、いつも愛聴して下さる皆さんだけでなく、始めての方にもお勧めできる内容となっています。

本年もまた、毎月の関西での勉強会とDVD発信をベースに、本日お話した「真の二元論」の実践について、深く探求し、皆さんと分かち合って行きたいと思います。皆さんとの双方向の刺激で、この実践論もどんどん進化していくことができます。

本年も何とぞよろしくお願いいたします。

2019年1月

自分教ガイド・とうしん 拝

【連絡事項①】
●2018年12月度大阪ヌーソロジー教室の動画DVD、できました!

12月テーマ:『一神教精神のあとにに来るもの』
「一神教精神」という「エクスカリバー」を引き抜け!

昨年12月8日に福岡で行いました講演をベースに

講演では掘り下げて語ることのできなかったポイントを

関西ヌース教室ならではの、臨場感とユーモアを交えて詳しく見ていきたいと思います。

初心者にもお勧めの内容です。

動画の冒頭部分をYouTubeにアップしています。

お申し込みは以下のページからどうぞ。

【連絡事項②】
●2019年1月度ヌーソロジー教室やります(京都・大阪)

1月テーマ:2019年の展望

年初は恒例、その年の展望をヌーソロジー的視点を交えながら見ていく回です。

特に今年は平成最後、重要な節目の年です。何が飛び出すことやら。

1年の始め、初詣感覚でお越し下さい(笑)

★1/22(火) 京都ヌース教室
場所:ウィングス京都 会議室11
午後6時半~9時

★1/26(土) 大阪ヌース教室
場所:江之子島文化芸術創造センター Room8
午後1時半~5時

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魔とは「間」のこと。

魔が差したという言葉を、犯罪行為を行った人から聞くけれど、

そこには魔が入り込める余地のある「間」があるということ。

自分がまともで、

常識がある人間で、

ぜったいに間違うことはないと思っていても。

そこにほんのすこしの「間」があるなら、

いつでもそこに魔があるのだと思っていた方がいい。

禅などでは、参禅中に至高体験が訪れたり、圧倒的な視覚的イメ-ジがやってきたとすると、

それは「魔境である」といい、師にぶんなぐられる。

これはなぜなのか?

至高体験そのものが魔なのではなく、

至高体験をしているその人のなかに「間」があるなら、

その体験を本質的な成長へと活かすことができなくなり、

至高体験によって抑圧された自己愛や傲慢さがあふれだすこととなるために、

それを「魔境」と呼ぶのだ。

究極のところ誰でも至高体験は可能だ。

人里離れた寺へ行き、一か月ほど決められたプログラムをこなせば、ほぼ誰でも「覚醒した」と思えるような至高体験を得ることはできる。

しかし本人のなかに「間」があるなら、それは定着しない。

定着しないどころか、自己愛や傲慢さに囚われ、その後の人生のプロセスのなかで、致命的な欠損をもたらす場合もありうる(もちろんすべてがそうだとはいわないけれど)。

さて。

この「間」とはなんだろう?

たぶん一番わかりやすくいうなら

「ズレ」

のことだ。

言っていることとやっていることが違うとわかっていながらも

ひっこめることが出来ずにいるときにやってくるズレ。

誰かをとても愛し、欲したとき。

ようやくその人と結ばれたとき。

どこかでふっと感じるズレ。

求めているものが現実になったときに

どこかでふっと冷めてしまう温度のズレ。

夫婦関係のなかでのほんのわずかなズレ。

この「ズレ」があるとき、そこに「間」があり、「魔」が入ってくる。

最初はとても小さなズレ・間の感覚。

やがてそれがだんだん大きくなってきて、

決定的になってきたときに、

そこに魔を基にした「善悪」が展開される。

最初はちいさな溝だったはずの人間関係のズレが

巨大な谷底ほどの間に広がっていく。

そしてそこに大きな「魔」が入る。

一度、魔に取りつかれてしまうと

本人のなかでの「善」が「悪(他者へ支配)」となっていることに気が付かなくなり、

破滅的な場所まで突き進むことになる。

大きなところでは戦争もまったく同じこと。

最初は小さなズレ・間だったものがやがて国家的な巨大な谷間にまでひろがってしまう。

そして強力な「魔」にとらわれ、お互いの正義の元に、支配がはじまる。

小さなところでは仕事選びなど。

最初はこれくらいのズレは我慢できると思っていたものがだんだん広がり、自分のやりたいことと求められていることが大きく隔たる間にまでひろがり、そこに「魔」が入る。魔は言う。止まることは死ぬことと同じだと。

そして魔はその人をむしばみ、うつや自殺へまで追い込んでしまう。

仏教やエソテリシズムの教えでは

もし人が全的な成長を遂げていくなら、

「間」に関する自己認識を前提にすることが大きなポイントであると説く。

現実的なズレを修整することが重要なのではなく、

ズレを認識し、いまズレている、ここに間があるのだと、初動のときに気が付くこと。

初動でズレに気が付いていれば、それは「魔」をはらうこことと同じだ。

しかし「甘い誘惑」にとらわれたとき。

抑圧された自己愛や傲慢さが

その「ズレ」を「なかったこと」にしてしまう。

本当はだれでも初動で気が付いてるはずなのに。

そして小さなズレから、大きな間が生まれ、そこに「魔」が巣くうのだ。

魔とは外にある力ではない。

あなたのなかにあるズレ・間がやがて大きくなったときに、そこに魔が生まれる。

初動でズレ・間に気づくこと。

これが「魔」をはらう秘訣。

追。

私もたくさんのズレから、たくさんの「間」をもってきました。

そしてたくさんの「魔」にとらわれ、落ちてきました。

けれどいまわかるのは、すべて自分のなかの「間」をごまかすことから生まれた事象であり、自分自身の内面の現れそのものだということ。

初動で魔をはらうこと。

古来から仏教でいわれるこのことの大切さは、もちろんずっと前から頭では理解できていたのですが、ようやく本当に理解ができるものとなりました。

けれど人間はどこまでも間違うもの。

究極のところ、ズレはだれにでもあるし、間がないひとなどいない。

つまり魔を持たない人もいない。

けれどそのまま落ちていくのか、それとも自分自身のちいさなズレに気が付き、本当に自分がやりたかったことは何なのかをもう一度見直すことが出来るのが、人間です。

間は、魔がはいるものでもあり、いつでも自分で自分を変えることが出来るという大切な「間」でもあるのです。

人間という言葉に「間」が入っているのは、何にでもなりうる間という「可能性の矢」をすべての人が持っているということでもあるのでしょう。

4月1日撮影。息子と父。

●個人セッション 4月満席 だだいま5月受付

・アカシックレコードリーディングセッション
・リリ-スセッション

2019年個人セッションスケジュ-ルは

● ブッダプログラムワ-クショップ&リトリ-ト

・オーストラリアゴ-ルドコースト「星々の記憶を辿るリトリ-ト」 残席わずか

・エジプト「大ピラミッドでの儀式とイシス・オシリス統合の7日間」 残席わずか

詳細は

●ブッダプログラムスク-ル

・自己認識クラス          5月11日開講 残席わずか
・弥勒力クラス           8月24日開講 
・アカシックリ-ダ-養成クラス 8月3日開講

詳細は

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先週にほぼ書き上げた記事ですが、かなり長くなりましたので、これから3回に分けてアップしたいと思います。

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第1回テーマ:神と悪魔は表裏一体

シリーズ第1回目は、『神と悪魔は表裏一体』というお話をしたいと思います。

いきなりこんな事を言っても拒絶か無視されることは分かっています。神を信仰してきた宗教経験者にとって、信仰生活での尊い経験や美しい記憶、信じていた教祖や教団仲間達への思い入れなどが複雑に絡む問題ですから、ことはそう単純ではないでしょう。それゆえ、まずは事実関係からクールにせめてみたいと思います。

●大病院を支えているのはガン患者

大病院を支えているのはガン患者・・・例えば抗がん剤の価格はピンからキリまでありますが、昨年ノーベル賞で有名になった「オプシーボ」は100mgで73万円、1gなら730万円です。もちろん患者には自己負担3割に高額療養費などで支出は抑えられますが、公的保険から支払われる費用で病院と製薬会社は儲かります。人工透析患者一人あたり年間500万円の売上げを病院にもたらすそうです。日本の医療費は2015年度で約42兆3644億円。40兆を超える医療費を病院関連で分け合っています。

病気やケガなどが病院を支えている。これはそのまま精神世界、とくに宗教団体というシステムにも言えることではないでしょうか。

宗教で言えば、悩み苦しみ、様々な問題や葛藤が宗教を支えています。宗教に一番利益をもたらし、宗教を根底で支えているのは、人間に苦しみを与える存在、つまり悪魔なのです。これは事実です。このことは冷静になって向き合う必要があると思います。

悪魔が宗教を支えている。悪魔がいなければ宗教は成立できない。救い主も教団組織も、全ては悪魔との協働によって維持されています。「聖なるもの」を求める欲望が実はどれほど「汚れているもの」なのか、一度そのことを冷静に見つめる必要があります。

●歴史的事実をみても・・・宗教が見せる排他性と熾烈な争い

宗教は多くの血を流してきました。それも殉教の血という美しいものだけではありません。征服・殺戮の血をたくさん流してきたのです。例えばキリスト教では中世・十字軍によるエルサレムでの殺戮。ユダヤ人・アラブ人という理由だけで一般市民・女性子供ら数十万人を虐殺し、十字軍の兵士は返り血を浴びたまま神に歓喜の祈りを捧げました。そしてアフリカ大陸の征服と搾取、南北アメリカ大陸に渡っての原住民の虐殺と搾取にも宗教がからんでいます。

日本においても豊臣秀吉によるキリスト教禁止の理由の1つに、ポルトガル宣教師による日本人奴隷の輸出がありました。いろんな説が入り乱れていますが、数十万人が奴隷として売られていったという文献もあります。いまでもポルトガルやスペインには日本人の血を受け継ぐ人が沢山います。とにかく当時の西欧支配者の精神性にキリスト教的価値観から来る優越感と差別があったことは間違いありません。有色人種や土俗宗教をとことん野蛮なものとして見下していたのです。

宗教は権力、排他性・独善性、人種差別など数々の問題をもたらします。それはキリスト教など一神教にだけ見られるものではなく、仏教の歴史にも見られます。これは何故でしょうか。

●宗教は善悪観念を持つ

過去宗教が残した多くの課題を解決するべく、現代に入り新しい宗教が多数登場しました。いわゆる新興宗教の数々。しかしながら、それら新興宗教が人類の課題を解決したとは到底思えません。むしろ新たに多くの問題と混乱を巻き起こしています。信じて裏切られた人も多いでしょう。信じ切れなかった挫折感を引きずる問題もあります。いずれにせよ、幸福を実現するはずの宗教が、不幸と悲劇を産み出しているという事実・・・これは経験者には分かる、と思います。

なぜそのような事になってしまうのでしょうか。本日のテーマである「神と悪魔は表裏一体」とは、その理由を端的な言葉で言い表しています。

宗教は、かならず善悪観念を持っています。そこには悪魔の存在が出てきます。その悪魔との関係において原罪や堕落、そして救済の概念があります。これはキリスト教系でなくても、大抵の宗教においては、善悪の分離闘争、つまり「善の主体である神」と「悪の主体である悪魔」というような二元闘争物語があるのです。善悪二神と言えば古代宗教であるゾロアスター教が有名ですが、古代ゾロアスター教から今日に至るまで、この二元闘争物語は続いているのです。

ところで本来の神とは、悪を認めないほどの絶対性があるのではないでしょうか。なぜなら本来の神は「絶対善」だからです。信仰者ならこの事に異論は無いはず。神学的にもこれは正しい解釈です。絶対善である神が対象とするものはすべて善となります。それ故、悪とは神の対象にならない存在なのです。分かりすく言うと、本来の神は悪を完全に無視するはずです。

これが神を信仰する宗教に入ると、必ずや善悪闘争物語の中に巻き込まれます。神の意図に反して悪魔が大活躍するのです。その理由は「罪観」にあります。

これまた多くの宗教に共通ですが、それは「悪の責任が人間にある」という何らかの罪観があるのです。これによって人間にとんでもない重責が押しつけられます。人間はここから善悪分離の
性的分裂症という不治の病にかかり、宗教という病院から一生、さらには死後の世界までも逃れられない状態に落とされるのです。

この状況は、先にあげた病気と病院の関係に似ています。病院は病気を治したい。でも病気が病院を支える。医者と患者の関係。病院を支えているのは患者。何か同じ構造があると思いませんか。

(※誤解しないで頂きたいのですが、生命の現場・限界状況の中で日々格闘されている医療関係者をディスるつもりは全くありません。それどころか、私は医療関係者に対しては最大級のリスペクトを持っています。ただただ、頭が下がる思いです。私がここで問題にしたいのは「構造」です。人間が持っている限界構造。この閉塞状況を突破したいという意図だけなのです。)

病院が病気を必要とするように、宗教には「罪」が必要なのです。罪がなければ宗教は成り立ちません。しかしながら、神とは本来、罪とは全く関係がありません。つまり、罪を扱う場所と神を扱う場所が同じにはならないのです。これは困った。そこで「罪の主体」であるもう1つの神、つまり悪魔が必要になるのです。これが宗教の構造です。

まとめると、何らかの神を信仰する宗教は、実際には悪魔の存在を同時に必要とし、神と悪魔の二神論となって、人間を善悪の分離・葛藤状態に閉じ込める。二元論状態です。そして善悪分離というのは、実際には霊と肉の分離、心身の分離を引き起こします。理想と現実の葛藤状態です。この二元論闘争状態が、宗教の統治にとって根本的に必要なものとなります。

このような善悪二元闘争を必要とする精神を私は「一神教精神」と呼んでいます。一神教ではない、むしろ多神教であるという宗教があったとしても、そこに「善悪観念」がある以上は「一神教精神」の範疇にあるのです。そうではないでしょうか。

●新しい元号スタート、いよいよ自身の善悪闘争を終わらせよう

宗教は必ず善悪観念をもつ。神を信仰するということは、その裏に悪魔の存在を必要とする。そんな神を信仰する人間は、神と悪魔の善悪二神によって心身分離し、慢性的葛藤状態に陥る。このような善悪二神闘争をもたらす精神が「一神教精神」。その意味で、いかなる宗教も一神教精神の範疇にあると言える。

一神教精神は「善悪二神」という振り子を作り出すのです。本日のテーマである「神と悪魔は表裏一体」というのは、この振り子としての「善悪二神」のことです。

「神様が実は悪魔と同じだった」などと言われたら、信仰心のある人が反発するのは当たり前です。でもそれは振り子としての「善悪二神」のことであって、心の美しい皆さんが、愛し、信じ、求めて来た「本来の神様」のことではありません。そのような神様は皆さんの心の投影なのです。皆さんの美しい心が、それを表現しているのです。その神様は皆さんの心の中にいるのです。

皆さんの心の中にある「神様」の登場を阻んでいるのが、外側から圧力をかけてくる一神教精神なのです。本来は、神(カミ)+我(ガ)=鏡(カガミ)として、「完全なる鏡認識」のもとに神人合一があるということを以前にお伝えしました。一神教精神はその鏡を割って「主体vs客体」の対象認識をもたらし、神と我を分離し、外側に神を祀らせようとします。それを元に戻し、鏡認識を取り戻す必要があります。

鏡認識に至れば、原罪論などもおかしな話であるということが分かるのです。罪を語るものは、罪自身なのです。いわゆる「魔釣り」ですね。正神をたてまつる「祀り」に対して、魔を引き釣り出す「魔釣り」。「まつり」には2種類ある、というのが日月神示関連でよく言われます。

「悪魔」や「罪」というものは、人の心にある魔を釣り上げる為の概念。清水で油汚れを落とせないように、油には油と同じものをあてなければなりません。それと同じ。鬼をみるものは鬼であり、仏をみるものは仏であると。ここに最後の「一厘の秘密」が関係しています。

そして神人合一する鏡認識においては、神と私は「一対一の関係」となります。この関係こそが真の一神教であり、偶像崇拝という「幅認識」を避ける、純粋な「奥行き認識」の一神教である、と私は本に書きました。そして、それぞれが神人合一して「自分自神」なのですから、多神教でもあります。「一神教即多神教」の世界、それが「和多志」の世界です。これがスピリチュアルで言われるムーの記憶であり、縄文、古代日本精神です。

「和多志」とは「私」の古語。この語の中に古代日本精神、日本語の精神がよく現れています。

ところで今年は新天皇による新元号スタートの重要な節目。前回の昭和から平成への移行時には「東西冷戦の終結」がありました。それでいくと、今回の移行時には「南北冷戦の終結」があると予想されます。それは朝鮮半島の南北統一かも知れません。(※現在、北主導の統一になる可能性がまことしやかに囁かれていますね) 

しかし、そのような外側のことよりも、私たちは自身の内側の南北冷戦を終結しなければなりません。すなわち、本日一貫して語ってきている「神と悪魔による茶番の善悪闘争」を各自がそろそろ終わらせる時が来たのです。

●最後に・・・私たちが行くのは第4番目の道である

最後にシュタイナーの霊智をかりて、神や悪魔の問題をとうしん流にまとめてみます。

まず3つの道があります。

1.唯物論の道
すべて物質、神や霊など存在しないという立場。悪としては「アーリマン」。

2.二元論の道
霊と物質の分離、二元。終わりなき二元闘争におかれる立場。悪としては「一神教精神・ヤハウェ」。

3.唯心論の道
すべて霊、物質など存在しないという立場。悪としては「ルシファー」。

シュタイナー思想では、悪魔は2種類いるのですね。それがアーリマンとルシファー。以下に説明していきますが、ここにはヌーソロジー的な「四値論理」の構造を感じます。一者的価値観による振り子的二元論(プラス・マイナス)が人間を慢性的葛藤状態に閉じ込めます。そこを突破するのが四値論理。これは意識進化した変換人の論理である、というの
がヌーソロジーのキモですね。ちなみにこの四値論理とは、道教の陰陽太極図が表しているものと同じです。

さてそれで、人間は2番目の二元論の世界に叩き込まれています。ここで善悪闘争にあけくれ、慢性的な心身分離に陥ります。「二元論=人間論」という感じです。そして上で述べてきましたが、この二元闘争を作り出しているのが、神と悪魔であり、その大本の一神教精神、偶像と化したヤハウェ(本来の「YHWH」ではないという意味)。

そこで1番目が出てきます。宗教の欺瞞に気づき脱出しようという1つの試みです。それが唯物論。科学者達の多くがこの方向性を追求しています。しかしこれは言わずもがな、直観的なオカシさがあります。魂や死後の世界を否定する立場で、私たちの素朴な直観には反しています。この領域を支配する悪の力を、シュタイナーは「アーリマン」と呼びました。これはゾロアスター教の悪神「アンラ・マンユ」のことです。日本語表記が違うだけで、同じ意味。唯物論の暴走を主導する精神がアーリマンです。

そして3番目。純粋なる霊の世界、精神一元を求めようとする態度です。仏教の唯識などがそうですし、最近では現代スピリチュアルの根底にある「奇跡の学習コース」や、無我の現代的表現である「ノンデュアリティ」などもそう。奇跡のコースは、純然たる神一元論で、「神の霊」だけ、ということを宣言します。悪魔も物質も認めません。それらは全て「錯覚」という判断です。これは本来の一神教のカタチだと言えます。それで実践論としてはただひたすらの「許し」を主張します。

一元論ですから、主客一致の認識であり、かつ他者も認めません。なので、すべては自分の投影。他人に見える「怒り」は自分の「怒り」の投影であるとし、どこまでもただひたすら自己の内側の許しを追求していきます。これは先ほど説明した「鏡認識」ですね。

ちなみに私は「奇跡のコース」の方向性を大変評価しています。この道は「責任転嫁」を一切せず、すべてを自分の責任、自分だけの責任として引き受けていく道です。完全な鏡認識の道、「ホ・オポノポノ」と同じですね。

それが「ノンデュアリティ」までいくと、「自分がない」のですからそもそも「責任もない」という「完全解放」に向かいます。なるほど、その破壊力には目を見張るものがあります。しかし、不真面目な人に悪用されてしまうのでは? と心配になります。え、その心配する自分もないから関係ないって? はいはい、ノンデュアリティだからそうですよね。

ともかく、「純粋な一元」を求める立場が「奇跡のコース」や「ノンデュアリティ」であるということです。

しかしながら、シュタイナー~ヌーソロジー~自分教の見地から言えば、この立場にも問題が残ります。この立場に立つと、知らず「物質軽視」に陥ります。長い目でみれば、この方向性を採用してしまうと文明が停滞します。これはインドやチベットなど、東洋文明に停滞をもたらした原因でもあります。

シュタイナーが凄いのは、この領域を「ルシファー」的誘惑としていることです。シュタイナー思想で出てくる2つの悪魔的存在、アーリマンとルシファー。その内の1つです。これら悪魔は人間に干渉して、人間の霊性の健全な成長を阻害するというのです。ここにおいて、人間は自らの責任において、アーリマン的なものだけでなく、ルシファー的なものの誘惑をも避けながら成長していかなければならない、と説かれているのです。悪魔には2種類あるということですね。

ルシファー的悪を分かり易く言えば、酒に酔っ払ったような精神的快楽を求める悪のことです。厭世的な態度です。シュタイナーが神智学のブラバッキー夫人と袂を分かった理由の1つがここにあります。ブラバッキー夫人らが、古代エジプトの夢見心地な霊的体験を重視する方向にメンバーを指導していくので、シュタイナーはそれに反発し、神智学協会を脱会して人智学協会を設立したという経緯があったようです。霊性をもとめて、スピ的な楽しさばかり求めるのもルシファー的誘惑だと言えます。瞑想に伴う至高体験に固執する態度も例外ではありません。

またルシファー的悪には独特の排他性があります。この世界に耽溺するようになると、もう他人の言うことを一切聞かなくなるという傾向が顕著に見られます。瞑想に向かう方向性には他者がいないのですから、仕方がありません。

※『シュタイナー思想とヌーソロジー』・・・これは不朽の名著になると思います(統心)

●第4の道、「真の二元論」へ

当然ながら、ヌーソロジー~自分教がいく道は、これら3つの中にはありません。第4番目の道です。それを敢えて言うなら、

4.『真の二元論の道』

です。真の二元論、双子の精神であり、自己他者・双対性宇宙論のことでもあります。

宇宙の根源は真の二元性である、これがヌーソロジー~自分教の結論です。この真の二元性を採用することによって、善悪闘争は終わってしまいます。闘争するのは一元主義なのです。真の二元とはお互いの差を認めることであり、闘争自体が錯覚であったということが自然に分かるようになります。

次回以降の考察になりますが、真の二元論によって、悪の発生と存在理由もすべて説明されます。一神教精神のように矛盾を隠した偽りを演じる必要はありません。全てがそのまんま、あるがままの世界になります。

また、このあるがままの道は、神道家が大切にしてきた「かんながらの道」のことでもあります。それゆえ、この第4番目の道とは古神道、それもさらに遡る上古代の精神、カタカムナとかホツマツタヱの世界に通じるものがあると思います。

ちなみに私はこの第4番目の道を「スピリチュアル4.0」と呼んでいます。スピ0が唯物論、スピ1.0が精神論、スピ2.0が独我論、スピ3.0が無我論と来てからのスピ4.0です。それは「モノ自体」の世界、「物活論」となるでしょう。そこに「真の二元性」の世界があります。

この「真の二元性」をもたらすためには、まずは頑なな「一神教精神」を解体しなくてはなりません。実は上であげた第1の道「唯物論」も、第3の道「唯心論」も、ともに「一神教精神」に回収されているのです。上の3つ道は、すべて一神教精神の範疇なのです。

お疲れ様でした。第1回目はここまです。このあと今月中に

第2回テーマ

『物質世界の目的は「霊の個体化」にある』

第3回テーマ(最終回)

『「失敗概念の解体」による「善悪観念からの卒業」』

を順にアップする予定です。お楽しみに。

昨年12月の大阪教室では、今回の話につながるような、かなり集大成的なことを語りました。以下にDVDを紹介しています。12月度大阪教室DVDは、いつも愛聴して下さる皆さんだけでなく、始めての方にもお勧めできる内容となっています。

本年もまた、毎月の関西での勉強会とDVD発信をベースに、本日お話した「真の二元論」の実践について、深く探求し、皆さんと分かち合って行きたいと思います。皆さんとの双方向の刺激で、この実践論もどんどん進化していくことができます。

本年も何とぞよろしくお願いいたします。

2019年1月

自分教ガイド・とうしん 拝

【連絡事項①】
●2018年12月度大阪ヌーソロジー教室の動画DVD、できました!

12月テーマ:『一神教精神のあとにに来るもの』
「一神教精神」という「エクスカリバー」を引き抜け!

昨年12月8日に福岡で行いました講演をベースに

講演では掘り下げて語ることのできなかったポイントを

関西ヌース教室ならではの、臨場感とユーモアを交えて詳しく見ていきたいと思います。

初心者にもお勧めの内容です。

動画の冒頭部分をYouTubeにアップしています。

お申し込みは以下のページからどうぞ。

【連絡事項②】
●2019年1月度ヌーソロジー教室やります(京都・大阪)

1月テーマ:2019年の展望

年初は恒例、その年の展望をヌーソロジー的視点を交えながら見ていく回です。

特に今年は平成最後、重要な節目の年です。何が飛び出すことやら。

1年の始め、初詣感覚でお越し下さい(笑)

★1/22(火) 京都ヌース教室
場所:ウィングス京都 会議室11
午後6時半~9時

★1/26(土) 大阪ヌース教室
場所:江之子島文化芸術創造センター Room8
午後1時半~5時


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