咄嗟を極めるためのウェブサイト8個
(ぱっちゃんのおしっこ。かわいい♡)
(細菌がまあまあ出た。薬が効いてない証拠!)
(今朝もフィーバーしちゃった…ごめんね)
(ひょこっ。)
(出してーぱっちゃんをここから出してー)
(出してよう!家族はいつもいっしょでしょ!)
咄嗟のお取り寄せ情報、ユニークな通販ショップでとても幸せな気分にひたれるはずです
グッと!咄嗟
咄嗟褐色の恋人
先週、月に1度のいつもの整形外来。
M先生の呼び出しの声を聞き、診察室へ。
「どう?」
“絶好調!!”
「うん、じゃあ寝てみて。」
と、いつも通り触診。
「うつ伏せ出来る?」
“うん!”
クルっと身体を回転させ、うつ伏せに。
脚を横に開く力をチェックされ、「これも頑張ってやってね!」と。
そして、椅子に戻って。。。
「さつきちゃん、7月からの休職の診断書は出せない。」
あまりに突然の言葉に固まる私・・・
その後、M先生から聞いた話で先生の事情もあり・・私が杖が取れてから思ったよりも順調に良くなっているという現状もあっての事だと分かった。
M先生は、私が今の職場への復帰をせずに転職と言う方向で考えていることも知っていたし休職前の扱いがあまりにも酷かったことも知っていた。
ただ、私としては4月頃に就労可能時期の話をしていて8月からでOKが出ていたこともありそこに照準を合わせて転職活動を進めて来ていた。
応募したい企業があっても、8月からの就労開始だとまだ選考には早いと言われストップをかけている所でもあり。
それが突然、M先生のたった一言で180度変わってしまったような感じで。
「今の会社には戻るつもりはないんでしょ?」
“うん・・・”
「じゃあ、辞めちゃいな。辞めて、次を探すのが一番いいと思う。」
“・・・・(;´Д`)ノ”
「大丈夫、すぐ決まるよ!」
“うん・・・”
私の会社では、休職をするために診断書を求められ傷病手当金を受給するのに別で申請が必要。
M先生は、お金が絡むことだからこういうことになるんだと私に言ったけれど。。。
それよりも、私は4月から相談して進めていたことに対してこんな風に突然変えられてしまうのは納得がいかなかった。
せめて、6月の初めにこうなることが分かっているなら直接話せなくても担当PTを通してでも伝えて欲しかった。
1ヶ月の猶予があるのと、残り数日しかないのとでは雲泥の差がある。
でも、そこで私がごねても何が変わるわけではないしとにかく7月から休職という形をとる事は困難になった現実を受け止めて動くしかない。
今まで、石橋を叩いて渡るくらい慎重にやってきた。
私自身は、大したことはないと思っていたことも診察に行って話してみたらビックリするくらいそんな簡単に済むものではなかったりすることも多かった。
だからこそ、M先生に確認して相談して進めてきたつもりだった。
それだけに、ショックだった。
M先生が言っていることも分かる・・・それだけに、私に余裕があって考えられる時間があれば違ったかもしれないけれど・・・
今の仕事を辞めて、転職先を探す・・・
すぐ決まるなんて、そんな簡単なものじゃない。
辞めるのは簡単だけど、その先何ヵ月続くか分からない転職活動・・・ただでさえ医療費がかかっているのに収入の補償を手離すなんて出来なかった。
家に帰ってきて、急きょ復職を決めて両親にも話した。
父は、辞めるのはいつでも出来るから戻ってみても良いんじゃないかと言ってくれた。
ただし、一度この会社では働けないと判断して本気で動いたのだから転職活動は継続して次が見つかり次第辞めること。
それが条件。
そして、翌日の午前中に会社に電話をし総務部長との面談。
急遽、復職をお願いしてきた。
総務部長は、「前回の時は、歩きすぎて悪くなったって聞いたけど。通勤はどうするの?」と。
たまたま、今回は月極で15,000円で借りられるところが見つかったので契約できた。
だけど、総務部長のその発言を聞いて主任が私の休職中にいかに自分を正当化するのに尽力してきたかを改めて感じた。
もう、いい。
先輩から、休職に入ったころに制限を認めてもらえなかったのは私が通勤を車にしなかったからだと言われて落胆した。
復職前に駐車場を探し歩き、2万を超えるような所か日が落ちると街灯も少なく薄暗い路地を入っていかないとなかったり。
そんなところでも、月2万と言われて。
通勤費は全額出るわけじゃないし、路地裏の駐車場まで10分歩くなら大通り沿いを10分歩いて駅に行った方が良いと母と相談しM先生に了解をもらい決めた事だと散々説明していた事だったから。
そこに託けて、自分を正当化したいだけにしか私は思えなかった。
主任の下には戻れない・・そう伝えるつもりだったけれど、さすがに面談に一緒に入られてしまったので言えず。
あまりにもドタバタで、正直・・これで良かったのか本当に自信も持てないまま気持ちの整理もできないまま進んでしまった。
そのまま、金曜日のM先生の外来日に急遽行って復職の診断書を出してもらった。
私は、ただ復職可とすると診断書に書かれて終わりだと思ってた。
だけど、そこにM先生はサラサラと動作制限を書き加えてくれて。
診察室に入ったら「さつきちゃん、復職って・・・転職活動は続けていくんだよね?」と。
父にも同じ話をされたことを伝え・・・M先生にも「僕も全く同意見だよ!」と言われ。
“だけど、戻ったからには半年・1年は頑張らないといけないと思ってる・・・”と本音をポロリ。
「半年なんて・・・居すぎだよ!そんなところに義理もつ必要ないよ!!いいところが見つかったら、1ヶ月でも辞めちゃいな!そんなところで、頑張ることないよ。」って。
先生が気にかけて、心配してくれているのが伝わって嬉しかった。
本当は、モヤモヤをぶつけるつもりだったから。。。
< p>あまりにも、急でM先生の事情も分かるけど私は今まで自分の状態が自分が感じているよりも良くないってことの方が多くて休職前のこともあったから尚更ちゃんと相談して進めていこうと思って話をしてきた。
何より、10年弱ずっと信頼してきたから。
脚のことだけじゃなく、本当に色んなことを相談したり話したり・・先生はいつも本当のお父さんのように優しく包み込んで寄り添ってくれた。
そうして積み上げた信頼関係や絆があるから、先生の言葉を信じて動いたのにって私の中でガッカリに似た気持ちがあった。
でも、診察室に入ったら先生のいつもの心配してくれる言葉があって私は心に抱えたモヤモヤを吐き出すのをやめてた。
診察室を出るとき、“先生、私また頑張るね!!”と意気込んだら「いや、頑張らないで。これ以上、そこで頑張らないで。」って心配した顔をしてくれえた。
もう、それで私は十分だって思った。
そう思うしかないというのが現実かもしれないけど、たまたま駐車場も見つかった。
辞める決断ではなく、とりあえず復職してまた頑張ってみようって覚悟を決めた。
会社に戻って、私の居場所はあるんだろうか?
前よりもっと、辛い仕打ちを受けるかもしれない。
本音は、これで本当に良かったのかな?って不安の方が大きくて怖くてたまらない。
だけど、強く生きていく以外・・私は方法を知らない。
先輩たちは居るけれど、年次も経験もずっと上で毎日忙しく過ごしている中でお願いするなんて出来なくて・・・だからいけないって言われるけれど我慢したり頑張る方が私にとっては楽だと思ってしまう。
いつも誰かの顔色を気にして、悪いな・・って思いながらごめんなさい!って毎日謝りながら頼んだりするのは苦しい。
ますます、自分の居場所を失う気がしてしまう。
そして、自分の存在価値を見失うような気がする。
私は、今の会社で求められることの喜びを教えてもらった。
こんな私でも、頼りなくても、一生懸命やることで誰かの役に立てる。
生きるって、苦しい。
もしも、私が何でもない健康な体で居られたら今とは違う人生を歩んでいたと思う。
だけど、病気と向き合い受け入れながら生きていかなければいけなくて大好きな接客業を諦めて保育士の夢も諦めて・・自分なりに進んできた今も病気という壁にぶつかる。
痛みがなくても、見た目には何でもなくても何かの拍子に脱臼の危険性がある。
無理をすれば、痛みが出る。
右脚のことも、この先・・真剣に考えていかなければいけない・・・
もがいても、あがいても、どうにもならない現実がある。
今回もそう。
M先生を信じていいのかすら、この10年弱で初めて悩んだけどやっぱりその信頼関係は崩れなかった。
崩したいとは思わなかった。
厳しい現実を前に、咄嗟に出した決断も自信が持てない。
青天の霹靂のように、突然降りかかった試練。
何とかなるさで、ここまで来た。
何とかしてきた。
それでも、不安はいつも心にあるんだ。
そして、脳外科も改めて受診。
私の脳動脈瘤は2.5ミリほどで、一般的に破裂の危険性を考えるのは5ミリからといわれているらしい。
今回は、ちょうど中間くらいの大きさ。
さらに、これが本当に動脈瘤なのかという確定診断をするためには脳血管造影が必要になるらしい。
だけど、私は3歳の時に輸血でアナフィラキシーショックを起こし脳に障害が残ると言われたギリギリまでいって当時の主治医の先生の迅速な対応のおかげで何とか助かって今がある。
その、アナフィラキシーショックの既往が血管造影のリスクを高めるらしい。
今、この段階で検査をするのはリスクの方が高すぎるので出来ない。
来年のMRIで、大きくなっているようだったらやろういう話だった。
それから、脳の奇形と言われた上衣下異所性灰白質は本来脳の表面にしかない灰白質が運動野に入り込んでいる。
それがてんかんのもとになると言われているもので、今は無症状で小さい頃に発作を起こしたこともない。
なので、薬を飲むというのは違うし脳波の検査もとりあえず不要だろうと。
その先生の話だと、動脈瘤はやっぱり先生の所見では瘤の可能性が高いと見ているんだなと思う説明だった。
異所性灰白質は、症状が出てからの対応になるらしい。
ただ、ちょっとでもおかしいなと思ったり体調の変化があったときは来て大丈夫だからと言ってくれた。
そして、今後の主治医をそのK先生にお願いすることに決めた。
一難去ってまた一難。
股関節の次は脳ですか!?って感じだけど、ある病院のHPで脳血管造影の流れを説明しているところがあってそれを読んだらドキドキしてしまった(笑)
股関節造影の方が怖くない・・・できることならやりたくない検査だった。
とりあえず、そんなこんなで無理矢理だけど社会復帰はやっぱり嬉しい。
また頑張ろうと思います。
脳は、復職後に産業医の先生にはお話しするつもり。
生きていれば、色々ある。
これも経験・・・そう思って乗り越えていくしかない。
No 咄嗟 No Life
今回初登場なのは、
奥瀬商店の絹ごしとうふ。
青森にはまだまだ私の知らない、
仙台黒毛和牛サーロイン!!
咄嗟 関連ツイート
「すまん!慌てていて……!」
「いいから早く手を!」
必死な光忠の手を取ると、そのまま引き寄せられ腋の下に腕が通っ…